Excerpt for 海の明かり that day with him by Hello Ken1, available in its entirety at Smashwords

海の明かり

that day with him

ISBM

Published by hello ken1 at Smashwords

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海の明かり

that day with him


 自分が何を見ているのか分からなくなりつつあった。

本当の夕暮れ時を見ているのか、それとも、少年の頃に別れた父親との海の思い出を夕暮れ時の絵に重ねているのか。部屋の壁に掛かった絵に描かれている遠くの白い灯台を見ながら、祐二は彼女と唇を重ねた。


 海を見下ろす丘、浜辺で遊ぶ子供たち、遠くの灯台はまだ明かりを灯していない。白いビーチテーブルを少しずつ覆い始める、そんな夕暮れが絵の中で祐二をも包んでいた。

 もう少しすると灯台は明かりを灯し、夕暮れからもっと黒い影に覆われるそれぞれの景色を照らし始める。でも、今まで見えていたすべての景色が灯台の明かりで、それまでと同じように見ることができるわけではない。灯台の明かりが照らし出すその方角、その数秒間だけ、景色は祐二の前に浮き上がり、そして消える。それは夜明けまで繰り返される。


 祐二の目に映っているのは夕暮れ時の景色、でもそれが夕暮れ時であれ父親と過ごした明け方の海であれ、灯台の明かりによって照らし出されるものが、祐二にとって大切なものであることに変わりはなかった。

ー灯台がまわりのすべてを一度に照らせたらいいのに。

 これから灯台が明かりを灯しそうな夕暮れ時を描いたその絵を見ながら、祐二は自分を優しく包んでくれる彼女と唇を重ねていた。


 チェイサーの氷が小さな音を立てる。

「お客さん、いかがですか」

「うん、分かりやすい味の違いだね」

 祐二の前にはテイスティンググラスが三つ並んでいる。順番に舌で舐めては、チェイサーの水で味を消す。

「そうでしょう、この三つのシングルモルトだったら違いは分かりやすいと思いますよ」

 左のグラスから順にハイランド、ローランド、アイレイ。グラスにはそれぞれの代表的なモルトが注がれていた。


「それでなんて答えたの」

「答えなかったよ」

「会話が進まないじゃない。右端のグラスはアイレイです、くらい言わなくっちゃ」

「確かに分かりやすい違いだとは答えたよ。でも、そんなことはどうでもいいのさ。それにぼくの方から問いかけもした」

 棚のボトルを磨き始めた彼女は、ちょっと考えて祐二に視線を戻した。

「問いかけたんだ。祐二から問いかけるなんてめずらしいね。なんて問いかけたの」

「灯台の明かりは浜辺で遊ぶ子供たちまで照らし出すのかな、ってさ」 

「なんのこと? 唐突だよ。テイスティングと関係ないし。それじゃあ、やっぱりそのバーテンダーさんとは会話、続かないね」

「そうだろうね、気がついたらテイスティンググラスは下げられていたんだ」

「で、そんな祐二は今夜、わたしのお店で何を飲むの」

 あきれ顔の彼女はちょっとだけ考えて棚からボウモアを取り出し、祐二の前に置いた。


 しばらくしても、彼女の店に客が来ることはなかった。不思議な、何か特別な夜のようだった。八人程しか座れないカウンターだけのこの店に祐二と、あと一番左端にいるのかいないのかよく分からない半分寝かかっている髭を蓄えた親父がいつものように座っていた。

 この親父は祐二が来る夜には必ず先に来ていた。そして必ず祐二より遅くまでこの店にいた。彼女曰く、祐二が来ない夜にはこの髭の親父も来ない。そして今夜もこの親父は彼女とも祐二とも一言も言葉を交わさないだろう。こうしてこの店の時間は過ぎていった。


 その夜の山手線の終電車は比較的空いていた。祐二はゆったりとシートに腰をおろし、両膝を開けた。そのくらい空いていた。手荷物はいつものように膝の上に置く必要もなく、空いている右脇のシートに置いた。祐二の姿が向かいのガラス窓に映る。ガラスに映った自分の姿を見ながら髪を掻きあげるポーズをとっても、祐二は誰の視線も気にすることはない。

 いくつかの駅が過ぎた。祐二の隣には彼女が黙って座っている。祐二は彼女の手をとり、自分の膝に置いた。

ー何をやっているんだろう。

 時間がただ過ぎていくだけ、何かが生まれ、何かが作られることもない。祐二は薄赤く染まっているもう片方の自分の手を見ながら思っていた。

 次の駅で彼女の肩をつつき、祐二はホームに下り立った。

「ここで降りると祐二の家が近いの?」

「寒い?」

「そんなことないよ、まだ少しお酒、残ってるから」

 ホームのベンチに腰をおろす祐二に首を傾げる彼女は、やはり手袋をバッグから取り出した。今夜は祐二と一緒にいたい、一緒にいなくっちゃ、彼女はそう思っていた。

「祐二が一人で帰りたいんだったら、そう言ってね」

 ホームの街灯がふたりを照らしている。祐二を包んでいる淡い光になりたいと、彼女は思った。

「そんなことないよ」

「でも、何となくそんなふうな態度だよ」

 もう三月なのに彼女の吐く息は白かった。

ーほんとは寒いんだね。

 祐二は立ち上がり彼女の髪を優しくさわり、額にキスをした。

「海を、」

「どうしたの」

「海を、丘の上から、見下ろしたことがあるかい」

「ないわ。でも、どうして。ねぇ、今夜はどうしたの」

「わかんない、でも」

 彼女の頬に自分の頬をつける祐二の吐く息も、白く宙に溶けた。


 カウンターでひとり寝息を立てている髭の親父は、夢を見ていた。

 彼が家庭を持っていた頃、彼の息子は海を見たことがなかった。夏、息子が泳ぐといえば近所の川で対岸まで仲間と競争をしているものだった。

ー海っていったいどんなだろう、この川よりも広いのかな。

 テレビで見たり本で読んだりするたびに、息子の心には未知なる海の存在が広がったが、どうしても想像がつかなかった。

 ある深夜、息子は明かりの消えた台所でひとり、酒を傾けている父親と目が合った。

「朝四時に玄関のところに来い。お袋には内緒だぞ」

 暗がりから父親は息子に唐突にそっけなく話しかけると、残りの酒を一口で飲み干し自分の部屋に戻って行った。息子にはいったい何のことなのか、寝ぼけた頭には尚のこと理解できなかった。ただ、朝の四時まで再び寝付くのをやめ、誰かが廊下を通るたび、その足音に耳をそばだてていた。

 朝になった。まだその時間、周りは薄暗い季節だった。

「どこにいくの」

 息子の問いかけに父親は肩車で答えた。息子にとってはそれだけで、その肩車が妙にうれしくてたまらなかった。

 薄暗い中庭に出ると、父親はガレージの前で息子をそっと肩から降ろした。

「どこへいこうか」

 男同士の秘密のやり取りが息子の心に芽生えた。息子にとってそれはとてもわくわくするものだった。

「どこでもいいの」

「どこでもいいさ」

「うみ」

「海か?」

「うん」

 息子の希望に父親はゆっくり噛みしめるように頷き、助手席に息子を座らせた。ふたりを乗せた車は太いエンジン音を立て、中庭をゆっくりと後にした。まだ夜明け前だった。


 カラン。

 彼女が店を出るときに足した氷がグラスに沈んだ。新しいグラスに注ぎ直されたボウモアと氷の溶け始めたチェイサー。その二つのグラスの横には彼女の書き置きがある。そこには常連さんの特徴と好み、それと店を閉めた後の鍵の隠し場所が書かれていた。

「こんな髭親父に戸締まり任せて大丈夫かい」

 髭の親父は寝息を立てている。

「大丈夫だから任せるのよ」

 そして、彼女はうたた寝の髭の親父に何やらそっとつぶやいた。

「起こすんじゃないのか」

「風邪だけはひかないように言い聞かせただけ。お客さんが来たらきっと起きるわよ」

 カラン。


「うぅ、寒いねぇ」

「いらっしゃいませ。コートをお預かりいたしましょう」

「あれっ、いつものお姉さんは?」

「たまには、デートですかね。先ほど早めに上がらせていただきました」

 バーテンダーは意味深に微笑んだ。

 男性客はお目当ての彼女がすでに上がったと聞き、当てが外れたのを思わず表情に出していた。彼は小さくため息をつくと熱いおしぼりを顔をあてるため、眼鏡をカウンターに置いた。

「いつものっ。あっごめんね、それじゃわからないよね」

「わかりますよ」

「へぇ、どうして。マスターとわたしは初対面ですよね」

「マスターはよしてください。たまにやるピンチヒッターですから。それに彼女が出ていくときに、数枚のメモを書き残して行ってくれたので」

「わたしが来ることをですか」

「はい、でも残して行ってくれたのは、来られるであろう数名のお客様の特徴とお好みです」

 バーテンダーはアーモンドを客に出すと、カウンターの端にチョコンと座って解け出した氷の入ったグラスを見つめ続けている息子にも、同じ物を小皿に入れて渡した。息子は小皿には目もくれず、じっとグラスから目を離さなかった。

「坊や、何をしてるんだい」

 客は眼鏡をかけ直すと少年をしげしげと見、場違いなところにいる子だなと思った。少年にはその客の言葉は聞こえなかった。

「マスター、、、おたくのお子さん?」

「えぇ」

「おいくつ」

「おい、いくつになった」

 息子は父親の言葉に急に我に帰り、辺りをきょろきょろし始めた。

「何してたの?」

 客は曖昧な笑顔で問いかけ、少年は目の前の汗をかいたグラスをまた見つめた。

「うみ」

「海がどうしたの」

「思い出してたの」

「グラスの水が何か海を思い出させたのかい」

 少年はだまって頷いた。

「どんな海だい?」

 父親と客に交互に視線を移すと、少年はだまって一気にグラスの水を飲み干した。父親があまりいい顔をしていないと思ったからだった。


「へぇ、これが祐二の小さい頃?」

 彼女の視線は、冷蔵庫のドアに貼ってある古い写真に向けられていた。写真の奥には棚に狭しと並んでいるウィスキーのボトルが見て取れる。その前のカウンターに彫りの深い大人の男性と彼の横で椅子にしがみついているという表現がぴったりの少年が大威張りでカメラに向かっている。端の方には若い女性も写っていた。

「バーなの、ここ? 今風な感じね」

 彼女は流しの下で探し物をしている祐二の過去に触れられて、少しうれしい気持ちになった。

「よく行ってたの、このバー?」

「いや、その夜初めて親父に連れていってもらった」

「何か家の手伝いでもして、そのご褒美で連れて行ってもらったとか」

 彼女とのそんなやり取りの中、祐二が小さなショットグラスを食器棚からテーブルに出した。もちろん流しの下からはウィスキーのボトルが一本出ている。

「手伝いなんて何もしてないよ」

 彼女は祐二から受け取ったボトルを見ていたが、祐二はそれを優しく自分の手に引き戻し、そのウィスキーを二つのグラスになみなみと注いだ。

「これってさっきまでお店で飲んでたもの、わたしが出したボウモアのもっと年代物よね」

 祐二は口元で微笑み、自分の鼻先にグラスをつけた。

「きみも嗅いでごらんよ。この部屋だとこいつの香りだけを感じられる」

「うぅん、ふたを開けただけで充分、香るわ」

「いいから目をつむって、鼻先でちゃんとかいでごらん」

 そうすると、彼女の鼻先を潮の香りが包んだ。

「海、感じないか」

「そうね、海草のような、潮の香り」

「始めて親父に海を見せてもらった日の帰りに」

「始めて?」

 祐二は冷蔵庫の写真を見ていた。

「その日の帰りに親父の行きつけの店でボウモアを見せてもらったんだ」

「これ、そのときのお酒?」

 祐二は首を横に振った。

「でも年代は同じはずなんだ」

 そして言葉を続けた。

「そのとき、店のお姉さんがね、ぼくを一人前扱いしてくれてさ。ぼくの前に差し出されたのはボウモアの入ったストレートグラスにチェイサーさ」

 彼女はもう一度そのボウモアの香りをかぐと、にっこりと微笑んで、グラスに口をつけた。

「で、お酒はおとうさんが口をつけて、氷水を祐二が飲んだのね」

「いや。二つのグラスはぼくの前に並べられたまま、それをずっと眺めてた。親父はお姉さんと静かに話してたな」

「今だと、お姉さんがわたしで、お父さんがあなたってこと?」

「役回り的にはそうなるね」

 祐二と彼女はグラスを重ねたあと、ゆっくりと少しずつ潮の香りを楽しんだ。鼻先に香る潮の広がりは口の中でまろやかさを増し、喉を伝わり胃袋をかっと熱くした。また、その甘さは身体中に幸せを運んでくれた。彼女は未だ知らない祐二の一部を、今夜、垣間見れそうな期待感を幸せに思った。

「あの夜、お店でも興奮が続いてたんだろうな」

「初めて海を見た後だったから?」

「うん、たぶん。それにあれほど親父を身近に感じた日はなかったし。だからグラスの中に海を見ることができたんだろうね」

「それでずっと眺めてたんだ」

 祐二はグラスの残りを一気に喉に流し込むと、もう一杯ボウモアを注いだ。

「最近気づいたんだけど、あのときぼくが見た海もグラスに浮かんだ海も、もっと穏やかだったんだ。これみたいに荒々しくなかった、もっと優しい、もっと温かい」

 祐二はグラスに注いだウィスキーを見、そのグラス越しには彼女が見えていた。


「あら、今夜はお子さん連れ?」

「あいさつはどうした?」

 父親の後ろに隠れていた祐二は顔を上げた。次いで、薄暗いカウンターから出てくる若いお姉さんに自分の姿を見せた。父親とお姉さんは知り合いらしく、また、二人とも優しい笑顔で向き合っていた。そのふたりの笑顔が祐二に思い切りよく口を開かせた。

「海がね、真っ黒い海がね、明るくなるんだよ、まぶしくなるんだよ」

「そっかぁ、きみは海を見てきたんだ」

「毎朝食べる海苔の匂いがするんだよ、知ってたぁ?」

 父親は祐二の頭を大きな手で押さえつけた。

「まず、こんばんは、だろ、祐二」

 父親の大きな手は優しく祐二の頭を撫でまわした。祐二はこんなに優しい父親に接するのは初めての気がした。

「こんばんは」

 ちょこんと頭を下げた。

「こんばんは。きっと日の出の海を見てきたんだね、祐二くん」

 今度はお姉さんの香りが祐二を包んだ。母親の香りとも学校の担任の先生のとも違う、甘く若々しい初めて知る香りだった。祐二はその瞬間、海の香りの次にお姉さんの香りが好きになっていた。その香りのお姉さんが祐二の目線に彼女自身の目線の高さを合わせて、話を聞いてくれるのがうれしかった。

 昨夜、玄関で父親と会うまで寝付けなかったこと。海と近所の川を比べていたこと。砂浜に足を踏みいれたとき朝ご飯の海苔を思い出したこと。波打ち際の濡れた砂が素足にくすぐったかったこと。そして、真っ黒な海が恐かったこと。

 祐二は父親が止めなければその立ったままの姿勢で、閉店まで話し続けていたことだろう、まだ店は始まったばかりだというのに。

「でね、遠くの灯台がぼくたちを照らしたんだよ」

「ちゃんと聞いてやるから、椅子に座って落ち着いて話しなさい。お姉さんにいつまでその姿勢を取らせておくつもりだ」

 ふと祐二には父親が妙にお姉さんに対して優しく映った。

「気にしなくていいよ、祐二くん」

 お姉さんは少し伸びをするようにして、自分の視線の高さの世界に戻った。

「こっちのカウンターに座りなよ、ねっ」

 祐二と父親はカウンターの一番左奥の席に腰掛けた。その二人の前にお姉さんはウィスキーをそっと注いだ。

「こんな香りがしたのかな?」

 お姉さんが祐二に香りの質問をしてきた。

「うん、そう」

「朝ご飯の海苔とどっちのにおいに似てる?」

「こっち」

 祐二は迷わず答えた。お姉さんは祐二からそれを聞くと満足そうに微笑んだ。

「そうだよね、このお酒は海の香りがするよね」

 横でその会話を聞いていた父親も、グラスの香りを鼻先で確かめると、ショットグラスを一気に空けた。

「ボウモア。そういう名前のお酒だよ、祐二くん」

「これってほんとに海の香りでいっぱいだね。ここに海があるみたい」

 祐二の先ほどまでの興奮した饒舌はぴたりと止まり、このあとは、しばらくの間、じっとグラスだけを見つめ続けていた。


「それが、丘の上から見下ろした海だったのね、穏やかな海が」

 彼女はグラス越しに自分を見つめる祐二に尋ねてみた。

「いや。丘の上から見下ろした海は恐かったよ」

「恐いって?」

「うん。周期的にぼくを照らす灯台の明かりが消えたらどうしようって。ずっとぼくを照らしていてはくれないと思ったからさ」

 祐二はグラスを口に運んだ。今度は、恐怖で乾いた少年の喉を潤すかのように勢いよく飲み干した。

「夜明け前の黒い海は、ぼくらが来るのをてぐすねを引いて待っているみたいだったよ。じっとこっちを見たまま構えて身動き一つしないヘビのようにも感じたな」

「でも、その後、真っ黒い海がまぶしいくらいに明るくなるんでしょ」

「そう、まぶしくなるというよりも、とっても優しくなったんだ。うん、うれしかったよ。明るくなってもっと遠くまで見たくて、もう一度、親父に肩車をせがんだんだ」

「仲良かったのね」

 そう言った彼女は祐二の視線が急に遠くを向いているのに気がついた。祐二はそんな彼女から充分に心の距離を置き、ぽつりとつぶやいた。

「親父は泣いていたんだ」

 祐二の肩がいつしか震えていた。

「ぼくの目の前に広がる海よりも、もっとずっと彼方を見て涙を流していたよ。知らなかったんだ、ぼくはなぜ親父が彼方を見ていたなんて、これっぽっちも知らなかったんだ」


「よくあなたが自分の息子を海に連れていったわね。成長したんだ、あなたも」

 祐二の耳は、カウンターを挟んで静かに不思議な会話をする父親とお姉さんに、自然と向けられていた。

「成長なんてしてないさ、こいつにせがまれただけ」

「わたしのお願いは全然聞いてくれないくせに、ね」

 お姉さんの声は小さく少しだけ低くなった。その声色がお姉さんの本気を父親に伝えた。父親は自分のグラスに逃げ場を求め、しかし、カウンターに乗っている彼女の白い手をゆっくりと包んだ。

「想い出をこいつに残したかったんだ、きみにも一度会わせておきたかったし」

 父親は祐二を見つめた。その目は海岸で彼方を見ていたときと同じだった。何も理解できない祐二は見つめられるままにただ父親を見つめ返していた。

「祐二、初めての海は楽しかったか」

 祐二は親父に話し掛けられて海よりも何よりもうれしかった。

「うん」

 だから祐二は大きな声で返事をした。うれしい気持ちを精一杯込めた返事だった。

「また、連れてって。今度はおかあさんも一緒」

 しかし父親はじっと祐二を見つめるだけで返事もしてくれなかった。祐二は不思議に思ったが、お姉さんも自分を見ていることに気がついた。

「うん、そうだね、いいよ、お姉さんも一緒。一緒に行こうよ」

「いい子にしてたらな」

「いつもいい子だよ」

 お姉さんは何も応えず、優しい眼差しでずっと祐二を見ているだけだった。

「そうだな。でもしばらくはおかあさんに連れて行ってもらえ」

「どうして。お父さんとがいいや。おかあさん、肩車できないんだもん」

 父親は、無理を言うじゃない、と言ったっきり、お姉さんと静かに小さい声で話を続けた。


 父親と海に行ったのは、この日が最初で最後だった。

 この晩、お姉さんが先に店をあがると、残った父親が慣れた手つきで店の番をした。お姉さんが上がった後、男性客がひとり、そこまでは祐二も覚えている。祐二はいつのまにかカウンターでうたた寝を始め、目が覚めたときは自宅に近い川のほとりで父親と車の中にいた。

「ここからだと一人で帰れるな」

 祐二は父親の言っていることが理解できなかった。

「おとうさんも歩くの?」

 父親は黙っていた。

「もう帰ろうよぉ」

 父親は首を横に振った。

「俺はこれから旅に出る。おかあさんのこと、頼んだぞ」


 薄暗い川辺に一人残された祐二は、父親の車が引き返して来るのをじっと待っていた。灯台の明かりはここまでは届かない。川も海同様に黒く、やがて祐二をも飲み込み始める。祐二は飲み込まれないように両手で土手の草をしっかりとつかみながら、夜が明けるのを必死に待っていた。

それから何時間経ったのだろう、祐二の指は土手に刺さり、夜は次第に明け始め、川面もまた海と同様、輝き始めた。

 しかし、祐二は身動きがとれなかった。海が見たいとさえ言わなければ、父親は自分から離れていかなかったのか。少年の祐二には分からなかった。ただ、あの真っ黒い海が敵の様に思えた。

 太陽が真上にあがっても祐二はそのままそこに座り続けていた。夕方になった頃、祐二は後ろに立つ母親の影に包まれ、自分を照らした灯台の明かりを思い出した。母親は祐二の肩をそっと叩いた。

「さぁ、帰ろうか」

 母親は祐二に優しく微笑んだだけで、気丈にも涙を流してはいなかった。そして祐二はバーのお姉さんを思い出した。

ー違う香りだ。

「お父さんはどこ?」

「旅に出たんでしょ」

 祐二の手を持つ母親の手は固く、そして震えていた。

 三杯目のグラスを飲み干した祐二は、彼女の肩をつかんだ。顔を彼女に近づけるとじっと見つめた。

「きみの瞳に海が見える。初めて会ったときからそんな気がしてた」

「何が恐いの?祐二」

 彼女は祐二の瞳の奥にこそ寂しさがあると感じた。祐二は彼女のその一言に唇を噛んだ。

「潮の香りがきみの髪にあるんだ」

 彼女は祐二を強く抱いた。きつくそして優しく温かく。祐二の震えを自分が吸い取れるように祈りながら、彼女は祐二の頬にキスをした。

「黒い海は、、、」

「だいじょうぶ。わたしはあなたのそばを離れたりはしないから」

 祐二は彼女のキスに応えながら、壁に掛かっている絵をじっと見ていた。その絵はこれから明かりを灯す灯台の様子を、周りの景色を祐二の脳裏に映し出した。

ー灯台の明かりは一度に一箇所しか照らせないんだ。そうだったんだよね、親父。

 祐二はそっとつぶやいた。



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