Excerpt for Midnight Zoo by Hello Ken1, available in its entirety at Smashwords

Midnight Zoo

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Midnight Zoo


 航は信号の赤い色で頬を染める晴香を見ていた。

 街灯もないこの交差点、唯一の明かりが信号だった。

 信号待ちをする車もなく、この時間、人通りもない交差点、航は赤い光を晴香の左目にも見つけた。

「帰るね」

 晴香は航の頬に右手を添えると、ふわりと交差点をわたりはじめた。

 思っていたよりもひんやりとした晴香の掌を頬に感じた航は、晴香の言葉でスイッチが入ったかのように、踵を返してさっきまで晴香といたバーに戻った。

「おや」

 どうして戻ってくるんだろう、と宙に浮くような声がカウンターの中から聞こえてきた。

 自分でもなんで戻ってきたのか説明もつかない航は、さっきまでと同じウイスキーを頼んだ。

 ふわりと歩き始めた藤崎晴香のことを知らないわけではなかった。

「ただ」

 知っている限りの、

「いや」

 ほとんど知らない、名前くらい、名字だけはかろうじて記憶にあった。

 真ん丸の氷が沈んだ、浮かぶというより、たしかに沈んだウイスキーグラスが航の視線に入ってきた。

「ひとりごと、ひとりごと」

 マスターは笑いながら軽くおかきの山もさし出してくれた。

 大通り沿いを夜風に当たりながら、と言えば聞こえは良いが、新聞配達が動き出す前あたりの時間を、少し危うげな足取りで航はマンションに戻った。

 ドアを開けると、玄関に桜子の靴が置いてあった。

「おかえり」

 リビングから頭にバスタオルを乗せ、航のパジャマを着た桜子が現れた。

「終電なくなったので、寄らせてもらったわ。ちょうど今シャワーから出たところよ」

 悪びれる様子もなく、いつも桜子はとつぜん転がり込む。

 そして自分が飲んでいたミネラルウォーターを航にさし出した。

「さんきゅ」

 航もいつものこととしてグラスを受け取り、二口ほど喉を通す。

 航は桜子に続いてリビングに入り、ソファーに腰を下ろした。

「何かあったでしょ。うれしそうな、でも、不思議な顔してる」

 のぞき込むように桜子が航の前にひざまづいた。

 濡れた髪、白いうなじ、胸の谷間、航は桜子を引き寄せ強く唇を重ねた。

「それも楽しいことだったのかしら」

 からめた舌で唇を軽く舐めた桜子は興味津々に聞いてくる。

「藤崎って覚えてるかな」

「どこの」

「高校時代の隣のクラスの藤崎、たぶん」

「さぁどうでしょうねぇ」

 桜子は「ふふふ」と笑って航のシャツのボタンに手をかけた。


 藤崎晴香はそのビルの受付に座っていた。

 ビルの受付は総合受付となっていて、特定の会社向けではない。晴香がその受付で働き始める前までは、総合受付はなかったと聞いている。大きなビルではな かったが、素通りでそれぞれの会社のフロアーに行けるのは、セキュリティの観点からよろしくないとのお達しがあったかなかったか、ICカードで開閉する ゲートがエレベータホール前に取り付けられた。

「訪問先を確認して、受付にあるボタンでゲートを開けるだけ。あぁそうだ、ゲスト用のバッチもお渡ししてね」

 今回所属する派遣会社のマネージャーの曽谷から言われたのはそれだけだった。

 晴香がきょとんとしていると、曽谷は面倒くさそうに晴香の顔をのぞき込んできた。

「難しい仕事じゃないと思うけど」

 1年間フリーターだったときは海外をふらふらしていたとは言え、大学を卒業してからの3年間はそれなりの会社に就職していた。それも総務畑、だからこの 派遣会社にもすんなりと入れたと思っている。もっと言うと海外をふらふらしていたときの語学力も買われていてもいいはずだ。

「ゲスト用のバッチにICは付いていないんですか」

 以前いたそれなりの会社ではすでに付いていた記憶があった。

「お金かかるからそこまでやってないんじゃないかな。とにかく受付の中にあるゲートを開けるボタンを押せばいいわけだから。いかにもって感じで」

 なんともいい加減なセキュリティだと思ったが、まぁ難しいことは苦手だからこれ以上つっこんで聞かないことにした。

 受付に座った初日、朝一番で曽谷も現れた。

「あそこ、見えるかな。あそこからこの受付は監視されているらしいから気をつけてね。いやいや、籐崎さんを監視してるんじゃなくて、不審人物がもしこの受 付に来たときのためだから」

 そう言って曽谷は受付から見て右手の天上近くにあるキラリと光る丸いものに視線を投げた。指さしで教えるのもよろしくないのか、視線自体もそっけない感 じだった。

 その後、受付はいつまでたっても晴香1人だった。

 業務説明のときに曽谷から「すぐふたりになるから」と聞いていた。だがすでに3ヶ月がすぎようとしていた。そして曽谷は外回りのついでにと、よくこの受 付に寄り、監視カメラの視野外の立ち位置から晴香に話しかけた。

「なかなか条件の合うひとが見つからなくてね」

 晴香としてはひとりでも十分だと思うようになっていた。

 訪問者からすればゲートさえ開けばよく、ゲスト用バッチには興味もないし、渡せなくても誰もクレームを言ってこない。ランチに行く時もトイレに立つ時も 「お急ぎの場合は直接ご問先にお電話願います」と書かれたボードと電話機を受付に出しておけばよい。先日の夏休みのときもそれで事は足りた。

 そんな3ヶ月もすぎ、ひとりで受付に座り始めて以来、もう3年目を迎えてしまった。まだ担当は曽谷だし、受付は自分ひとりのままだった。

 淡々とすごす毎日、受付ブースから視線ひとつでほぼフロアー全体を見渡せる。いろんな種類の人間がいるものだと毎日感心する。雑誌を片手に本当に時間を つぶしているひと、携帯の画面に没頭しているひと、それもゲームなのか、メールなのか、ネットサーフィンなのかまで表情でわかる、ノートPCに向って難し い顔をしているひと、携帯を耳に当て頭をさげ続けているひと、電話の声が次第に大きくなって行くひと。そして待ち合わせのシートからじっと晴香を見つめて いるひと。晴香としてはひとの視線を感じても、薄い笑顔を絶やさないでいれれば仕事をしたことになる。

 一日の終わりは受付ブースからまっすぐに見ることができる夕日だ。

 毎日ひととしての会話らしい会話もないままに仕事は終り、晴香はそのビルを後にする。

 ビルから足を踏みだし、陽が完全に落ちきった街に出ると、何かうれしくなってしまう。

 いつの頃からだろう、こんなに足取りが軽やかになったのは。

「さぁてと」

 晴香は口元に昼間とはまったく違う笑みを浮かべて、街灯が灯り始めた街へ歩き始めた。


 何も身に付けないまま、航の体温を感じながら、朝日に起こされるのが好きだ。数時間前までの余韻を身体の芯に覚えつつ、桜子は20センチ先の航の 横顔を見ていた。

 そっと航の臀部に触ってみる。

ーうん。航もわたしと同じ、さっきまでのまま、横にいる。

 妙な安心感を確認し、航の身体に自分の足をからめてみる。

ー朝日に包まれているふたり。

 少女趣味だな、と自分でも思いつつ航の胸に顔を乗せる。

 次に気がつくと珈琲の香りがしていた。

 身体を反転させ、顔を窓向きからリビング向きにすると、マグカップを手元にノートパソコンの画面に見入っている航がいた。マグカップからは白い湯気が上 がっている。まだ部屋の空気は少し冷たいようだ。

「珈琲、飲むか、丁度炒れ立てだよ」

「うーん、まだお部屋温まってなさそう」

「そんなことないだろ」

 航はシーツから顔だけ出している桜子の横に腰かけ、桜子の唇にふれる。そしてシーツを少しさげ胸にキスをする。

ーあ

 声にならない声が桜子の中で響く。

ーいつもの朝だ。

 桜子は航とのこの儀式で夜が終ったことを知らされ、ベッドから起こされる羽目になる。

「あーあ、朝になっちゃった」

 航は笑っている。笑って、炒れたてだと言う珈琲を桜子のマグカップに注ぐ。

「今日は何時までここにいるの」

 ちょっとした航の言葉は心もとない。

ーそうじゃないでしょ。

 その都度、桜子は心の中の言葉を押し殺す。

「航次第」

「じゃあ、何時までここにいれるの」

ーそれも航次第。

「何か用事がおあり」

 ベッドから降り、航にお尻を向けて桜子は下着を付け始める。航は見ていない振りで珈琲をすすっているはず。

「じゃあ、外でブランチでもどう」

 と誘ってきた航に首を横に振り、今、桜子は新しい珈琲を炒れている。

 ブランチをしてもその後別々の行動をとるのだったら、あわててブランチのために身だしなみを整えなくてもいいなと思った。

ーブランチのあとも日が沈むまで一緒にいれて、日が沈んだら昼間とは違う目つきで見つめ合う、それだったらいいんだけれど。

「航が帰ってくる頃にはもういなくなってるよ。適当に時間つぶして帰る」

 航は「夜まで待っていなよ」とは言わない。今日に限ったことではない、いつもそうだ。そしてそれが航なんだから。

 出かけ際に航が言っていたとおり、冷蔵庫を開けると確かに美味しそうなロールケーキが入っていた。

ー珈琲もある。ケーキもある。

 ひとり航の部屋に残った桜子は、夜明け前の航を思い出しながらほくそ笑んだ。


 仕事仲間での夜の飲み会は苦手としていた。

 お酒が入れば入るほど、説教がくどくなる。上司からは「だからだめんだ」と頭ごなしに言われ、後輩からは「しっかりしてください。お願いしますよ」と言 われる。それが昔の表現だと、壊れたレコードみたいに延々と続く。

 航はそれがサラリーマンだとは分っている。分っているはずでサラリーマンを続けている。でも避けられるものならば仕事仲間での飲み会は避けたいと思って いる自分がいることは、否定しきれていない。

「瑛太、出てこれないか」

 馴染みのバーから高校時代の同級生に電話をしてみた。

ーどうしてこいつに電話をしているのだろう。

 

 曽谷瑛太は騒がしい音をバックに答えてくれた。

「いいけど、遅くなるぜ」

 複数の女性の声が響いてくる

ーえー、だれだれ。おとこのこぉ。

 年末のパーティか。

「いつもの店だよな」

 そういつもの店、ここだと何も気を使う必要がない。

「とにかく、終ったら行くから。あまり遅くなったら」

 そこで電話はとつぜん途切れた。

 まぁいいや。

 腐れ縁だし、瑛太に対しては何も気兼ねがない。

 どうしてほしいとか、どうしなきゃとか、何もない。

 互いに自分の都合に合わせて呼び出したり、呼び出されたり。

 何度か口論になったことも、殴り合ったこともある。

 そんなことをするなんて仕事仲間は誰も知らない。知ってもらう必要もないだろう。

「たまに見かける顔だよね」

 カウンターふたつ隣でビールを飲んでいるお兄さんが話しかけてくる。

 L字の角に座っている白髪のおじいさんは微笑みながらバーボンを傾けている。

 この店で若い女性客がひとりでいるのを見たことはない。

「そうかも知れませんね」

 マスターがライムを添えて出してくれたジンのロックで、お兄さんに乾杯の仕草をする。

 お兄さんもそれを合図に自分の世界に戻っていく。

 おしゃれな若者が集うどの駅からも、そこそこ歩くこのバーは地元の客が半分くらいを占めている。

 でもそんな駅同士を結ぶと、このバーはおしゃれスポットのブラックホールに位置するのかも、航は我ながらよく気づいたぞと、口元に微笑みを浮かべて、ジ ンをなめる。

ーいろんな時間が必要なんだよ。

 バーの奥にかかっているスクリーンで往年のミュージシャンが歌っている。

 何人かの客の出入り、何組かのカップルの入れ替えがあり、この歌を聴いているのはさっきのお兄さんとおじいさんと航の3人。

 そしてお兄さんは携帯片手に表に出て、おじいさんは遅れてきた往年の悪友とふたりで並んで飲みはじめる。

「いい時間だ」

 航は瑛太のこともしばし忘れて目をつむる。

 バタン。ドアの音。「いらっしゃい」マスターの声。

 航の右肩に瑛太の手がかかる。

「まだいたか。呼んで来たぜ」

 笑っている瑛太の後ろには桜子が立っていた。


 瑛太はシングルモルトを頼んだ。

「マスター、ラフロイグ」

小さなショットグラスに、チェイサーがつく。

「まだシングルモルトなの」

 ふたつ隣でビールを飲んでいるお兄さんに「ここいいですか」と桜子はちょこんと頭を下げると、航の左側に座った。そして航を挟んで右側の椅子に浅く座っ た瑛太のグラスに目を移す。

「はやりなんてどうでもいいのさ」

 桜子のオーダーも待たずに、瑛太は航のジンに軽く自分のグラスを合わせる。

「今年もお疲れさま」

 きっと何気ないはずのその瑛太の言葉が、航の気持ちを軽くする。航は何か分らない緊張からすっと解放されていくのを感じた。

「まってよーっ」

 乾杯に入れてもらえなかった桜子は少しくちびるをとがらせ、カウンターに身を乗り出しマスターにあれこれカクテルの注文をいれはじめる。

「今年もお疲れさま、か」

 瑛太と桜子が来てから更に2杯目となるジンを口につけるころ、航は瑛太の言った言葉を噛みしめるように、ぽつりと小さく反すうした。

 桜子がそっと腕を組んでくる。

 瑛太が目で頷きながら、ケータイをポケットから取り出す。

「今夜は朝までいくんだろ」

 瑛太の目が笑っている。

「いつもだろ、このメンツじゃ」

「じゃ、ひなのも呼ぶぜ」

 瑛太が軽くケータイを振ってみせる。

「来るのにもう電車ないでしょ」

「タクらせるに決まってんじゃん」

「来るかなぁ。久しぶりに会いたいわ」

 桜子を交えたこのメンツも久しぶりだ。

 航は瑛太とたまに会っているが、頻繁と言うわけでもない。

 航と桜子はよく一緒に朝を向えるが、いつも航のマンションでの話。

 今夜、瑛太は桜子を連れてきた。航からの電話できっと航に元気が必要だと瑛太は感じたのだろう。そう感じるのに理由なんてない、それが航と瑛太の長年の 付き合いの賜物なのだから。

 そんな瑛太にも彼女はいる、いやそんな瑛太だからか。益岡ひなの、とっても古くからの付き合いというわけでもなく、最近その辺りで声をかけた関係でもな い。いつの頃からか、いつしか自然にひなのは瑛太のそばにいた。

「来いよ、こっちは3人だよ」

 ケータイでのひなのへの瑛太の口調はとても優しかった。メールにすると強引そうにも読まれてしまう言葉もこうやって声で伝えると、まったく異なるものに なる。瑛太はそのことをよく知っていた。「だって好きな子にいろいろ頼んだりするんだぜ」以前から瑛太は航にそう言っていた。

「来るってさ」

「だったら今のうちからあっちのテーブル陣取っちゃおうよ」

 カウンターの端にお情け程度にある、飲み物が四つとお皿がひとつくらいは置けるだけのテーブル、桜子はそれを指していた。

「今なら空いてるもんね。いいよね、マスター」

 マスターは静かに頷いてくれる。

 3人は顔を見合わせると席を移動し、もう一度乾杯の仕草をした。


「どうしてなんだろう」

 ひなのはリビングのテーブルにひじをつき、両頬を包むような姿勢で考えていた。

 週末の朝、今日は快晴、すでに朝日がレースのカーテンを通してテーブルまで届いている。

 青空も見える。薄いブルーだ。雲一つないすがすがしい朝。

ーでも、

「不思議だなぁ」

 目の前にあるケイタイの履歴を再確認してみる。

 メールの受信ボックスに瑛太からのメールは数えるほどしかない。女友だちや瑛太以外の男の子からのメールの中に埋もれている感じ。送信ボックスには瑛太 宛のメールはきちんとそれなりの数、存在している。

ー電話の履歴はどうかな。

 履歴を表示してみるまでもなく、分っていた。

 瑛太宛の発信履歴はない。瑛太からの着信履歴は山ほどある。と言うよりも着信履歴は瑛太からのものしか存在しない。

 ひなのはその着信履歴を見て、瑛太の優しい声を思い出すより先に、少し怖いものを感じた。不思議な感覚から、そうではなく、ストーカーという言葉の響き から受ける印象によく似ていることに気づいた。

「どうして毎回電話なのかな」

「メールじゃ気持ち伝わんないだろ」

「でもさ、メール方がうれしい時もあるんだよ」

「ないよ。だってメールは所詮キャラクターじゃん」

ー確かにキャラクターかも知れないけどね。

 あのときはそう答えようとして、ひなのは言葉を飲み込んだ。

 そして今は、自分に聞こえるように口にしてみた。

「キャラクターを見て、そのメールを打っている瑛太を想うのも、けっこう良いものなんだよ」

ーどうして、わかんないのかなぁ。

 やかんにお湯が沸いている。湯気がやかんの口から勢いよく換気扇に向って吐き出されている。

 ひなのはキッチンの戸棚からドリップ式の珈琲パックを取り出した。

ーそう言えば、

「豆から珈琲いれるの苦手だって言ってたよな」

 あの日のお昼まだベッドから起き上がっていないのに、いきなり、そして唐突にケイタイから瑛太の声が聞こえた。

「、、、おはよ」

「あっ、おはよ。寝てた」

「いいよ。どしたの」

「ドリップ式の珈琲パック、買った」

「え、意味わかんない」

「これきっとめんどくさくないよ」

 今から持っていくからとか、だからいるかどうかを確認したいから、じゃない。

 まったくメールでいい内容の電話も瑛太はしてくる。

 ひなのは珈琲パックにお湯を注ぐ。

 優しい香りがキッチン中に広がる。それはリビングにも、そして部屋中に広がるんだろう。

「まぁいいか」

 珈琲カップを片手にテーブルに戻ると、ケイタイを手にしてみた。

ーふふ、電話してみよ。

 ひなのは自分が微笑んでいる事も、また不思議に思った。


 桜子は高校時代の卒業アルバムを開いていた。

 男女共学だったけど、地元ではそれなりの進学校で学生の数は多くはない。

 クラスもABCの3クラス、50名ずつで男女比は半々。毎年クラス替えはあったが、高校3年生の時のクラス替えは希望進路に沿って、文系がAクラス、理 系がBクラス、Cクラスは医学部向けの特別クラスとなっていた。

ー懐かしいなぁ。

 目的を持ってアルバムを引っ張り出したが、いざページをめくってみるといろんな思い出がよみがえる。3年間の行事が時系列に並んでいて、ページをめくる 桜子の手を止める。

ーそうだよね、3年間とも航と同じクラスだったんだものね。

 講堂のステージの裏で、航に胸を触られたことも思い出す。ふふふ。

ーどっちが誘ったんだかなぁ。

 右手をそっと左の乳房にあててみる、あのときの航の手の感触を思い出すように。あのときと同じように桜子は鼓動が早くなるのを感じた。

 ページを更にめくっていくと、いろんな写真でその当時の航を思い出す。

ー恋人って感じじゃなかったなぁ。

 確かにペッティングは数えきれないほど、それもいつも講堂のステージの裏、後輩に見られていた時もあったけど、そんなの気にするよりも航と一緒に感じる 震える感覚を楽しんでいた。

ーセックスだけはしなかったなぁ。

 そしてふたりはそれぞれ、東京の大学と地元の大学へと進む。

ーあれから10年かぁ。

 先日、航は明け方戻ってきて「隣のクラスの藤崎」と言っていた。

 だからどうこうということもないが、恋人なんて呼ばれなくても、高校時代とちがって今となってはちゃんとセックスの相手でもある自分の前でうれしそう な、不思議な顔で女性の名前を口にさせるのは、やはり気になる。

 3年生のときの自分らのクラスには藤崎なんていなかったから、BクラスかCクラスのことなんだろう。藤崎の顔が少しでも記憶にあれば卒業アルバムをみる と思い出すはず、そう思って本棚の端に立てていたすこしほこりのかかった卒業アルバムを開いてみた。

ー航のことを思い出しすぎ?

 桜子は3年間の行事の中で、「藤崎」でピンとくる顔に出くわさなかった。

 3年生のときのクラス別の集合写真にも、ひとりひとりの顔写真にも、ピンと来るものはなかった。まさかね、と思って自分のAクラスもきちんと見てみた が、やはり同じだった。

ーん。

 「おかしいな」と思った瞬間、誰かに見られている、ありもしないはずなのに背中に冷たい視線を感じた。桜子はワンルームの自分のマンションのすべての壁 を舐めるように見つめ、「気のせいよ」と視線をアルバムに戻した。

 そして、今度は巻末の名簿を順に追ってみる。

 Bクラスには藤崎なんて名前はなかった。Cクラス、にもないだろう。

ーえ。

 予想に反して、そこには「藤崎」の名前があった。

「とうざき、藤崎、藤崎晴香、はるか」

 名前を口にしてみると、また背中に冷たいものを今度はかなり強く感じ、身震いまでした。

 アルバムの写真だと見つけられない藤崎が、巻末には活字として存在していた。

ー藤崎晴香、あなたはどこにいるの。

 桜子は記憶に何かひっかかりを覚え、もう一度アルバムに目を落とした。


「ねっ、いないでしょ」

 桜子がめくる卒業アルバムのどのページにも、確かに藤崎晴香の写真は載っていなかった。

「そしてこのページ」

 巻末の名簿一覧、そこにはCクラスの生徒の中に藤崎の名前は掲載されていた。

 まだ湯気が立ち上がっている珈琲に航が口につけ桜子に視線を移すと、そこには腑に落ちない不安そうな表情の彼女が航を覗き込んでいた。

 心霊写真を見つけた時の、いもしない人影を窓ガラス越しに見つけた時の、そんな印象を航は桜子から見て取った。

「普通に考えるとね」

 冷静に分析しようとしている桜子、それでも声は少し小さい。

 航は少し落ち着かせようと、言葉を続ける桜子の首筋にキスをした。

「だから。。。聞いてよ」

 桜子の声が少し大きくなった気がした。そして、桜子も航にキスを返す。

「文化祭や体育祭とかのイベントの写真はね」

 航は服の上から桜子の胸に触る。

「もぉ、まじめに聞きなさい」

 舌を出す航は笑いながら桜子に頷く。

「タイミングとか運とか、写りたいとか、そうじゃないとか、あるじゃない」

 桜子はアルバムのページをイベントのページから集合写真のページに移動させた。

「だから3年間で1枚もイベントのスナップに写っていないのも、ありだと思うのね」

「たしかにおれのもないに等しいな」

 あなたはいろいろさぼってたでしょ、桜子がやっと笑った。

「そして集合写真を撮る日にどうしても学校行けなかったとか」

「そうだとすると、集合写真の右上にまぁるく吹き出しみたいにぽつんと載ってくるわよね」

 航はまた珈琲を一口飲むと、自信たっぷりに答えた。

「クラスのアルバム委員が集合写真に漏れたクラスメートのフォローを忘れたんだな」

「そぉ、かなぁ」桜子はあまり納得できなかった。

 確かに航の推測は当たったいるのだろう、普通に考えると航の考えに行き着く。言われてみれば何ら不思議もない。

 航はそんな桜子を引き寄せると、フローリングに座ったまま、桜子を後ろから包み込んだ。両腕を桜子のお腹に回し、うなじを舐めるようにキスをす る。

 あっ、桜子はつい吐息を漏らす。

 しよか、航が耳元で囁く。

 気がつくと、外は暗く、カーテンはアルバムを見ていたときのまま閉められていない。

 ガラスに映る裸のまま髪の乱れた桜子と航。

 よくみると、少しふくらんだ自分の乳首もガラスに映っている。

「えっ」瞬間、桜子は硬直した。思わず声がでた。

「どした」

 航にあれを伝えたい。でも、これ以上声がでない。

 桜子はガラスに映るふたりの背後に立つ女性と目が合ったまま、航の腕を強くつかむ以外、何も身動きがとれなかった。


晴香はぼんやりと天井を見つめていた。

あぁ何だったんだろう。

いろんな夢を見ていた気もする。

タイムスリップしてあのときに戻っていたの。それともあのときのことを単に思い出していたの。思い出が夢で現れたの。

いろんな光景が脈略もなくつながっていた。だから夢なのかも知れないな。

昔のことも出てきたし。

住んだこともない部屋にもいた。いや、違う、部屋の一部になっていた。

その次は、見知らぬ恋人たちがセックスをする様子をそばで見ていた。

彼らは顔見知りかもしれない。でも、後ろから見ていただけで直接顔は見ていない。たぶん。

窓ガラスに映った恍惚な眼の女性と視線があったかも知れない。気のせいかも知れない。

こんなことが続くと、また何をしだすかわからないな。

ずっと以前だけど、ただ幾度となくこんな感覚が続いたこともある。

だから落ち着かせるために当時、母親はわたしに学校を1年休ませたんだもの。

自分から1年間だけ社会人生活から足を洗ったこともあった。

そのときはそれでもこんな夢を見ることは止まらなくって、海外に逃げた。

学校を休学して次の年次に入っても、3年働いた会社を辞め海外に行っても、何が変わったんだろう。

ちょっと回復しただけで、すっかり良くなることはなかったんだ。

夜、居心地の良いバーで流れる時間に身を任せる。

微笑むだけで、誰とも話しもせず、一時の関係も求めず、ただひとり心を解放する。

真夜中はみんな違う顔をしている。昼間と違う世界を求めている。

みんな現実逃避なのかも知れないし、その時間が本当の姿なのかもしれない。

そこには確実に昼間とは違う世界が、人たちが存在する。

でも所詮それは、線を引かれた限られた空間だけに存在するのかも知れないし、

空間だけじゃなくって、時までにも囲まれているのかも知れないな。

とにかく休学したり、海外に逃げたり、昼間とは別の空間に身を置いたりして、この異感覚に包まれない、再現しないようにしてきたと言うのに。

どうしてまた。

晴香はひとつため息をついた。

また再発したのか。

どうすればいいんだろう。

夢を見る。昔のことと重なるような光景も現れる。見た事もないところに自分がいる。そこにはどう見てもその時を生きている人もいる。

わたしはここにいると言うのに、

わたしは時間を、空間を飛び回っている。

そしてそこにいる人を観察している。

もし相手に気づかれたら、わたしはここに戻ってこれるのだろうか。

もし相手に話しかけられたら、ここに残っているわたしはどうなるのだろうか。

晴香の天井を見つめる眼は次第に険しいものに変わりつつあった。


 ひなのはナチュラルローソンにいた。

 ナチュラルと言うくらいだから、身体に優しく健康によい食品が置いてある。そしてこのお店の前にはステンレスのテーブルが4卓、なんとなく余裕の配置で 用意されていた。その1番端の奥に座って、ひなのはお店で買ったサンドイッチを頬張りながら瑛太を待っていた。

 車一台が通っても歩行者にじゃまにならない程度の道幅の道路が、お店の前を通っている。道路からテーブルまでは数メートルあり、かなりの解放感がある。

 その解放感もひなのは大好きだった。

 ひなのが瑛太に電話をしたのは10日前、いきなりの電話で映太もとまどっていたけど、なかなか休みの都合もつかず、ふたりが会うのは今日になって しまった。

 あの日、電話をかけたときはいたずら心も多分にあった。

 いつもメールを使わない瑛太、メールばかり使うひなの、もしかしたらひなのから瑛太に電話をかけたのは初めてかも知れない。いや、そう、初めてだった。 電話口でちょっとしどろもどろになる瑛太のことが想像もできなく、ひなのも驚いた。

「えっえっえっ」

「なに言ってるのか、わかんないよ」

「だ、だからさ」

「電話かかけてこられるとそんなにまずいことでもあるわけ」

「そんないじゃないよっ」

 瑛太の語気が少し強くなって、面白かった。

「で、用事はなに」

「用事がないと電話しちゃいけないわけね」

「いやいやいや」

 そしてその日から今日までの10日間、ひなのは不思議な体験をしていた。

 瑛太に電話をかけたときには、まだそんな体験をしていなかったから、単純に楽しい気分で、他愛もない会話をするだけのために、誘ってみただけだった。

 その不思議な体験は怖いという感覚から、どうしてなんだろうと理由が知りたい思いに変わっていた。

 今日はそのことを瑛太に聞いてもらおう。

 きっと気味悪がるだろうなと、ひなのは確信していた。普通に考えると、ひなのも気味悪がるはずだし、不眠症になってもおかしくないだろう。

 でも、ひなのはここ数日そうとはとらえなかった。気味が悪いと思うよりも、どうして、なぜの答えが知りたい気持ちの方がはるかに強くなっていた。

 サンドイッチをもうひとくち頬張りながら、とにかく瑛太に話を聞いてもらいたい、早く来ないかなぁと、ひなのは瑛太が来るのを道路に目を凝らしながら ずっと待っていた。

 そう、ある夜、はじめて見知らぬ女性が夢に現れた。

 その夢はひなのが寝入っているところからはじまった。自分がベッドで寝ている、それを真上から見ている自分。ふーん、わたしはこんな寝顔なんだと、ひな のは思った。けっこうかわいいじゃん。そこまではよかった。寝ている自分を見下ろしている自分の視界にひとりの女性が入ってきた。背の高い細身の女性、髪 は落ち着いたブラウン色で肩の辺りまで伸びている。顔色は色白と言うわけでもなく、ただ静かに寝ている自分を見つめていた。背の高い女性と寝入っている自 分、初めての夜はそこまでだった。


「一度だけだったら、そんなに気にもとめなかったのかも」

「えっ、一度だけじゃないの」

 今、目の前に瑛太がいる。

 連絡に電話ばっかり使う瑛太がいる。

 最近少しその電話がうざいと思うようになってきていた。

 マンネリだからか、倦怠期に突入なのか、とにかく他の男性でもつかまえて自分の瑛太への感情の変化を確かめようとまで、思い始めていた。

 でも、今、目の前に瑛太がいる。

 いつもはメールしかしないわたしが電話かけたら、しどろもどろになった瑛太がいる。

ー落ち着くのかしら。

 そうかもしれない。

 ただ、妙な夢をみたから、それから変なことが続いているから、それでわたしは不安になって、マンネリで倦怠期かなとわたしが感じ始めている瑛太でも、気 心が知れている分、安心できるのかもしれない。

ー瑛太だときっと落ち着くんだ。

 でも、誰と比べて。

 わからない。

 誰と比べているんだろう。

 比べる対象さえいないじゃないか。

ーきっと今は瑛太がいいんだ。

 ほんとまだよくわからない。

「そうじゃないんから電話してきたんだよね」

 電話したのはマンネリをどうにかできないか、ちょっとそう思ったから。

 そのあとに夢は見ている。でも、いいや。

「うん」

「幽体離脱みたいだね」

「幽体離脱?なんか久しぶりに聞くね、その単語。今はブームじゃないでしょ」

「幽体離脱にブームなんて概念ないでしょ」

ーやっぱり瑛太は変。そこがいいのかも。

「何笑ってるんだ」

ーほんとだ、わたし口元がゆるんでる。

「うーん、わたしには幽体離脱ってしっくりこないなぁ」

「でもね、次はね、ベッドサイドに立っていたのよ。目が覚めたらいたの。怖くて慌てて目を閉じて、もう一度目を開けたらもういない」

 瑛太は真剣に聞いてくれている。

「その次はね、夜とっても遅くに歯を磨いていたら鏡に映っていたの」

「顔見たのか」

「うぅん、身体の右半分だけ。怖くて座り込んじゃったんだけど」

「振り返るともういないってことかな」

「でも何もしてこない。きっとただ見つめられているだけ」

「地縛霊?」

「わかんないよ。でも思い返しても悪意があるとか、恨みが残っているとか、なーんかそんな気はしないのよね」

「見てるだけ?」

「そう、昨日も深夜にガラスに映ってた。えっと思って振り返ったら」

 瑛太が身を乗り出している。

「目を合わさないように、後ろ向きにまわってすーっと消えちゃったの」

「怖くないかい」

「怖いって言うより、どうして、何をしたいの、何か伝えたいことがあるのって聞きたい感じ」


 桜子とひなのはふたり並んで、カウンターのほぼ真ん中に座っていた。

 神妙な趣で時間はすぎようとしている。

「呼び出したのはね」

 桜子がひなのに視線を移し話しかけた。

 ひなのは息を飲む。

「うん」

 ふたり前にバーテンさんが気配を消して立っている。

「とりあえず何か頼もうか」

ーあっ、とりあえずを使っちゃった。

 桜子は航から「とりあえずって言葉あまり使わない方がいいよ」と言われていたのを、思い出した。今夜、ひなのを呼び出すきっかけになったのが航の話によ るものだったからか、桜子はそう思った。

「瑛太から聞いたんだけどさ」

 あの日、航は唐突に話を始めた。

「最近会ったの?だったら呼んでくれれば一緒に飲んだのに」

「いや、ちょっとした相談事だったから、おれと瑛太とで会ったんだ」

 航は静かに笑っていた。

「この前ガラス越しに映っていた女の人のことなんだけど、顔は色白じゃない感じで、落ち着いた茶色の髪の毛は肩よりほんの少し長めで、全体的にスレンダー な体形だったんだよね」

「そこまで詳しく覚えてないけど、まぁそんな印象かなぁ。でも具体的じゃん、どうしたの」

 そこで航は瑛太から聞いたひなのの体験を桜子に話して聞かせた。

 桜子の前にはピンク色の、ひなのの前には紫色の、それぞれのカクテルがさし出された。

 カクテルが注がれるまではふたりとも差し障りのない世間話をしていた。仕事のこと、航のこと、瑛太のこと、おやすみのすごし方、最近観た映画、美味し かったレストラン、いまいちなスゥィートの話。半分上辺だけの毒にも薬にもならない話題もそれなりに間を持たせてくれる。

「じゃあらためて乾杯」

ー何に乾杯するんだろう。

 桜子は思った。

ーきっとひなのちゃんもおんなじ気持ちじゃないかな。

ー何に乾杯するの。

「とりあえず乾杯」

ーひなのちゃんのとりあえずは、正解かも。

 桜子はひなののグラスにちょこんと自分のグラスを重ねた。

ーおいしい。

「美味しい」

 ひなのがひとこと口にすると、桜子は頷いて、端の方でグラスを磨いているバーテンさんにちょこんと頭を下げた。

「あのね、瑛太くんからの話って言うのを航から聞いたんだけど。ひなのちゃんのこと」

 桜子の一言に、ひなのは気持ち身体を桜子に寄せてきた。

 そのとき、バーの後方のドアが開く音がした。

「いらっしゃいませ。おひとりですか」

「はい。あの席、いいかな」

 場慣れした感じの落ち着いたトーンの女性の声が桜子とひなのの耳に届いた。

 その声に何気に振り向いたひなのは、グラスを宙に持ったまま、桜子の顔をみつめ直した。

 ひなのはまるで息が止まっているかのようだった。


 晴香はカウンターの一番奥の席に静かに腰を下ろした。

 バーテンダーは桜子とひなのの前からすっと晴香の席に移りチェイサーを差し出す。

「今夜も強めのお酒にされますか」

 控えめな口調だった。

「うぅん、ちょっとの間、このお水だけでもいいかな」

 晴香が元に少しだけ笑みを浮かべ頷くと、バーテンダーは一歩下がり、ロックグラスを磨き始めた。

 お店には壁際のテーブルに一組のカップル、カウンターに桜子とひなの、ふたりに離れて晴香がいるだけだった。気だるいジャズが店内の空気を少しひんやり と、でも優しいものにしていた。

 5分くらいか、それとも15分くらいか、晴香はじっとチェイサーのグラスにつきはじめた水滴を見ていた。水滴に天井からの明かりが入り、ちょっと した宝石にも見えなくもなかった。

ー少し疲れている。

 自覚していた。

 直接の原因もわかっている。でも何故、いまさら、そして頻繁に起こるんだろう。

 最近は同じ女性の部屋にばかり行っている。

 行きたくて行っているわけじゃない。

 ベッドに入り寝ようと思って気づくと、もう他人の部屋に立っている。

 女性がわたしに関わろうとすると、わたしは寝入る。

 そして朝、夢でも見ていたかのように目が覚める。

 ただ身体は重い。

 その女性に話しかけられたらどうなるのだろう。

 その女性に限ったことではない。

 ずっと見ていたあの夜のカップルの行為、行為の後の女性と目が合ったのかも知れない。

ーふっ。

 何に救いを求めているんだろう。

 不法侵入の得体のしれないお化けの話を誰が親身になって聞いてくれるというのか。

 晴香はやっとグラスを手に持ち、喉を潤した。

 ミキシンググラスからカクテルグラスに移された薄い琥珀色のドライマンハッタンが、晴香の前に差し出された。

 店内はお客が増えるわけでもなく減るわけでもなく、流れるジャズもふさぎそうな晴香の気持ちをかろうじてカウンターに繋ぎ止めていてくれる。

「ん、辛めで美味しいわ」

 晴香の言葉にバーテンダーはまぶたで頷いた。

 バーテンダーの笑顔、強めのカクテル、静かな空気、心なし落ち着いた晴香は自分の世界から少し範囲を広げて、店内の様子を伺う余裕ができた。

 テーブルのカップルはこじんまりとしたふたりだけのシールドを張っているようで、そこにラバーズ独特の空気感を醸し出していた。丸いテーブルに向かい合 うと言うよりも少し斜めに寄り添って、会話はそっと耳元で交わしていた。

ーいいなぁ。

 思っただけのはずだったが、実際は晴香の口から小さくその言葉は漏れた。バーテンダーの視線が晴香の方に少し動いたのはその言葉のせいだったのかも知れ ない。

 しかし、晴香が気づいたのはバーテンダーの視線の変化ではなく、カウンターの中央から自分に向けられている視線だった。


「なにか」

 晴香は自分に向けられているであろう視線に向かって、低く静かに確認の言葉を投げかけた。

 店内の照明の加減で、相手の顔は多少逆光気味になっている。

ーこっちの顔は見えてるのかなぁ。分が悪いなぁ。

 なんとなくそんな感情が心をよぎった。

 目を少し凝らして見ると、ひとりの女性が自分の方をじっと見つめていた。その女性に重なるように、少し身を隠すような位置でもうひとりの女性も自分に視 線を向けていた。

「初めてですよね」桜子はためらいがちに言葉を返してみた。

「いいえ、何回か来てますよ」

ーどう尋ねればいいんだろう。

 まだ残っているピンクのカクテルに口をつけると、桜子は決心したように続けようとした。

「そうじゃなくて」

 ひなのが自分の腕をつかんでいるのがわかる。

「お会いするのが初めてじゃない気がしたものですから。でも確信がもてないので人違いだったらごめんなさい」

ーもうひとりの自分が「よくさらりと言葉を続けられたね」とわたしをほめている。

 桜子はそんな気がした。

ーやっぱり分が悪い。

「よくお顔が見えないの」

 晴香のその返事に、桜子は少しだけ身を前屈みにして明かりの下に顔を出した。桜子の腕をつかんでしたひなのも引っ張られるように多少明かりの下に顔が 入った。

ー確かに初対面の気はしない。

 晴香は眉間に少しだけ皺を寄せる自分を意識した。

「思い出せないわ、ごめんなさいね」

 とりあえずそう答えてみた。

ーわたしの勘違いかも。

ーそう?かな。似てない?

ーうーん。

ー航から聞いたひなのちゃんのところに現れる女性に姿形は似ていると思うよ。

「でもね、桜子さん」

 ひなのの声が少しだけ大きくなった。耳元でささやくような声から近くにいるお客さんにも届くような声だった。

「さくら、こ」

 桜子とひなののひそひそ話が伝染したかのように、晴香は聞こえた声を小さく復唱した。

「はい?」

 呼ばれたと思い、顔を振り向けた桜子と晴香は一瞬見つめ合った。

「桜子、美並桜子と言います。やっぱりどこかでお会いしてますか?」

 

 晴香は、桜子それも美並桜子の名前で記憶に触れるものがあった。

ー桜子、美並桜子、もしかして同じ学校の桜子さん?

 そして、あの日、窓ガラスに映っていた女性の顔を思い出していた。

ーあの日、汐崎航と戯れていた女性は桜子さん?

 でも、

「いえ、そうかも知れないし、そうでないかも知れない。思い出せないの」

 と薄い微笑みを桜子に返した。

「やっぱりわたしの勘違いよ、きっと」

 そう桜子に話しかけた女性の顔がちょうど照明の真下になった。

ーえっ。

 晴香の口をついたその言葉は桜子とひなのの耳に届いた。


 晴香は、桜子の横にいる女性の顔が照明のもとに来ると、その女性が自分にとって誰であるか、ひとめでわかった。

 最近、深夜に気づくとその女性の部屋にいる。その女性がここにいる。

ー気づいていたら、どうしよう。

 何らかに気づいたから、声をかけてきた。

 何かを確かめたくて、声をかけてきた。

ーそう考えるのが、、、

ーと、言うことはまだ確証は持っていないはず。

ーもう相手にしないほうがよいかも。丁度よい頃合いだし。

ーでも、今のうちに、名乗るだけでも名乗ったほうがいいに違いない。

ー相手が名乗ってきた。だから名乗り返す。

ー普通の会話の流れ、世の中のマナー、うん、流れに身を任せてみよう。

 晴香はぐるぐると思考が交差する中で、一番素直な考えに従うことにした。

「美並さんっておっしゃるの?」

 晴香は少し掌の温度が下がる感じがした。

「わたし、藤崎晴香と言います。はじめまして」

 今度は桜子の息が止まった。

 航が再会したと言っていた晴香。藤崎晴香のことはなんとなく覚えていたが、どんなに卒業アルバムをくまなくめくっても見つけることができなかった藤崎晴 香が、今ここにいる。

ーひとちがい?どうせいどうめい?

 桜子は何が起こっているのか、何が起ころうとしているのか、くらくらとする自分を感じた。

ーせいりしなくちゃ。

 ひなのがさっき「あのひと」と耳打ちした。

 深夜に現れる霊もどきがこの女性にそっくりだということだ。

 自分も一度、航とのセックスのあとに窓ガラスに映った女性を一瞬見た。

 もしかしてひなのが言う女性と同じ人じゃないかと思い始めていた。

「どうかされました?」

 整理がつくまえに晴香から再び話しかけられた。

ーどうしよう。

「もしかして同級生の晴香さんですか」

 とっさの返事だった。

 何も意図したわけでもなく、もうこれしかないと思って口に出したわけでもなく、ましてや学生時代に藤崎晴香を名字ではなく名前で呼んだことなんてまった く記憶がない、思いもよらない自分の反応に桜子自身も驚いていた。

「え」

「同級生の晴香さんですよね」

 今度は落ち着いて言えた。晴香も驚いている、そんな気がしたからだ。

 確かにいきなり唐突にそうくるとは晴香にとっても予想外だった。

ー流れに任せる。

ー流行に任せる。

 晴香も桜子も同じ思いを自分に言い聞かせ、互いに見つめあっていた。


 どのくらい飲んだのだろう。

 いったい何の話題で盛り上がったのだろう。

 お店から閉店時間を告げられ、当然終電なんてあるわけもなく、そんな記憶もいい加減で、気づいたら自分の部屋のソファーで横になっていた。

 服はそのまま、ただタオルケットが肩から掛けられている。

 リビングテーブルの上のライトが点灯し、青白く見える。まだ酔っているのか。

 その明かりの下には航がいて、何かをひとりで飲んでいる。

「わたし、どうしたのかな」

「どうしたんだろうね」

 航は優しい眼差しを桜子に向けた。

「冷えた水でも飲むかい」

「そうね、いただけるかしら」

 起き上がろうとする桜子を手の動きで制し、ミネラルウォーターをグラスに注いだ航は桜子の横に静かに腰を下ろした。

「航はいつからここにいるの」

「きみが帰宅する少し前かな」

「迷惑かけちゃったかな」

「いや。勝手に上がり込んでるのはぼくの方だよ」

「いつもじゃん」

 航は苦笑する桜子を、優しく包み込むように唇を重ねた。

「やだ。お酒臭いでしょ、わたし」

「お互い様」

 そして今度は桜子から唇を重ねた。

 航の口移しで桜子の口に入ったミネラルウォーターはそれでもよく冷えていた。

 航の体温でぬるくなることもなく、ひんやりと桜子を潤した。

「買ってきたの?」

「桜子に面倒かけないように、自分のためにね」

「わたしの役に立っちゃったね」

「そんなこともあるさ」

 リビングの時計は4時を少しだけすぎていた。

「寝るんだったらベッドの方がいいと思うよ」

 航は少し笑っている。

「少しすっきりしたいんなら、ちょっとだけ熱めのシャワーかな」

 桜子は少し考えて、頷いた。

「航に話したいことがあるの。シャワーを浴びて頭の中を整理して、話すわ。待ってられる?」

「一眠りしてからじゃだめなんだね」

「わたしの方がうまく話せなくなるような気がするの。太陽が昇ると現実との境がわからなくなるような」

「ん。桜子の分の珈琲も入れて、起きてるよ。それでいい?」

「ありがと」

 桜子は航の首筋にキスをすると、バスルームへと向った。

 そして数十秒後、桜子の声が部屋中に響くことになる。


 航がバスルームの更衣室のドアを開けると、口に手を当てた桜子が壁を背に座り込んでいた。口に当てた手は小刻みに震えている。眼は一点、航に振り 返ることもなく、洗面台の鏡に向けられている。

「これは」

 鏡に書かれた文字、力強く書きなぐられている。その文字に重なるように鏡に映っている航自身、そして鏡の左下には座り込んでいる桜子が映っている。

ーたすけて

 鏡の中央にルージュで書かれた文字が浮かんでいた。

ーたすけて

 最後の文字は途中でつぶれていた。

 洗面台のシンクには折れた真っ赤なルージュが落ちている。

ーたすけて

 折れたルージュの先端はつぶれていた。

「だれっ」

 航は座り込んでいる桜子に振り返った。

「え」

「違う、桜子に言ったんじゃない」

 シンクのルージュの先端を拾おうとしたとき、鏡越しに赤い人影が航の目に入った。

 その赤い影は桜子の脇に立っていた。

 航が振返ると、その影はもうそこにはいなかった。

「今夜使ったルージュ」

 航が右手につまんでいるルージュの先端を、視点の定まらないままに見ている桜子が何か話し始めた。

「綺麗な色ねって」

 航も桜子の前に腰を下ろした。桜子は航の右手を見ている。

「わたしもその色つけたら綺麗になれるかなって」

 桜子の頬を涙が伝った。

「みんながふりむいてくれるかなって」

 涙の意味はまだわからなかった。

「でも、折れちゃったんだ」

 航はその折れたルージュをそっ桜子の左手に手渡すと、少しだけ微笑みを浮かべた。

ー落ち着かせなくっちゃ。感情が壊れないようにそっと。

「折れちゃってるね」

「うん。使えない」

「そうだね。また買おうか」

「使いたかった」

「気に入ってたんだね」

「わたしじゃないよ」

 航は「そうだね」と頷いた。

 眠るように意識のなくなった桜子を、航はベッドルームまで静かに運んだ。

 そして桜子の規則正しい寝息を確認すると、また鏡の前に戻った。

ー何を伝えたい。何をしてもらいたい。

 航はなかなか落ちないルージュの文字を消しながら、鏡の向こうの赤い影に問い続けた。

 振り返るとそこにはいない、でも鏡の中に映っている赤い影も肩で泣いているようだった。


 目が覚めると、赤いパジャマを着ていた。

 そんなことは知っている。自分が夕べこのパジャマを着てベッドに入ったんだから。

 ベッドから両足をおろし、腰かけるような姿勢で床に足を着いても、宙に浮かんでいるような感じがした。

 この感覚があるときはよくない、精神的によくない、まだ発作が糸を引いているときだ。

 晴香は寝起きで乱れた前髪をすくい上げようと、右手を額の高さに持ってきた。

 寝室に射し込む月明かりが晴香の右手を青く染める。薄青く染まった指の中に異質な色が目についた。

ーえっ。

 力の入らない脚でベッドから離れ、部屋の電気を点ける。

 円形の蛍光灯の明かりがさっきまでの青色をぬぐいさるかわりに、わずかな色だが晴香には十分すぎるインパクトで、見えづらかった色をその場にあからさま にした。まるで手品のタネを披露してくれているかのようだった。

ーだめ、脚に力がはいらない。

 その場に座り込んだ晴香の右手の人さし指と親指、そして中指にも少し、赤いルージュが付いていた。

 さっきまでは「目が覚めたら夢を見た記憶はあるけどどんな夢だったんだろう」、それによく似た感覚だったに違いない。

 でも、今はその夢が何だったのかが、ものすごい勢いで晴香の記憶に押し寄せてきていた。

ーなんなのよ。わたしはここで眠っていただけなのに。何があったの。

 晴香の目から涙が一滴、右手の甲に落ちた時、彼女はさっきまでも自分が泣いていたことに気づいた。

ー泣いてたの?わたし。どうして。

 そのとき晴香の耳の奥の奥の方から何か聞こえる気がした。その声に耳を澄まそうとすると部屋の片隅に蜃気楼のように、幼い頃の古い8ミリフィルムが投影 されているかのように、鏡に向って問いかけている男性の後ろ姿が見えた。

ー夢の中でどっかに行っちゃってるわたしがまだ完全に戻ってきていないっていうの?

 晴香は試しに両手でこぶしを作り力を入れてみた。

ー力が入らないのはそのせいじゃないよね。ちがうよね。

「何を伝えたい」

 しかし、男性の声がここにいる自分の耳に確かに響いてきた。

「何をしてもらいたい」

「た、す、け、」

 無意識に晴香の口が動いた。

 晴香は自分の口がそう動いたことに掌が冷たくなるのを感じた。

ーだめっ。ここにいるわたしがわたしでなくなるっ。

「何をすればきみは助かるんだ」

 また男性の声が聞こえた。

ー終ってっ。もう戻ってきてよ。わたしはもう目が覚めているのっ。

 晴香は電気をつけたはずの部屋が少しずつ少しずつ暗くなってきている気がした。

「助けたいんだ」

ーもうほっといてよ、、、お願いだから。


 壁に映っている男性は、根気よくゆっくりと晴香に話しかけてきた。

 いらいらしているような感情は晴香には感じられず、一言一言に本当にどうにかしてあげたいと言う気持ちがこもっているのが、伝わってきた。

 晴香は、その男性が見ている自分とここにいる自分の区別がつかなくなったとき、こちら側にいる自分の存在意味が消えうせると信じていた。

 寝ている間に、どこかに行ってしまう自分、誰もそれを知らないうちはもうひとりの自分は世の中には存在していないことになる、だって誰も知らない んだから。でも、その自分が誰かと接触をはじめたら、意思の疎通を始めたら、そうなるとここにいる自分の存在価値との天秤になるんだと、晴香は考えるよう になっいた。

 だから、もうひとりの自分を誰かに気づかれてはいけない、誰かに見つかってはいけない、ましてや会話をするなんて。

 でも、それはここにいる自分の言い分、自分が寝入るといろんなとこに徘徊をしはじめるもうひとりの自分にとっては、いろんな場所を見、いろんな人を見、 それを繰り返しているうちに、自分の存在を、ここにいるよと言う存在を示したくなるんだろうな、もうひとりの自分のそんな言い分が自分の胸のうちに生まれ 始めていたのをいつしか晴香は否定はできないでいた。

 そしてまだもうひとりの自分が、今の自分に問いかけもしていないのに、

ーあなたの存在意味って何か言える?

ーわたしなら存在をアピールできるわ。

ーあなたは今までかかわった誰の記憶にも残っていないのよ。

ー卒業アルバムに写真を掲載しわすれたのも誰も気づかないほどにね。

 今の自分だけで自問自答を繰り返している自分に気づく夜もあった。

 男性はときおり下を向いていた。でも、またすぐさま声をかけてくる。

「正直に言おう」

 それでも少し躊躇しているのが、なんとなく伝わってくる。

 そのとき、向こうにいる自分がその言葉に少し反応したのがわかった。

「一番助けたいのは、、、申し訳ないけど、きみじゃない」

 晴香はその言葉に身体が硬直するのを感じた。同時に、うらやましいとも。

 この男性は助けたい誰かがいる。その誰かはこの男性にとってかけかけえのない存在なんだろう。ふたりともに存在する意味をもっている。

「きみが接触をした女性は今、意識を失って横になっているんだ」

 男性は少しだけ身体の角度をこちらに向けた。

「その女性ときみとの間に何があったんだろう。教えてくれないか」

 晴香は窓の外が白み始めたのに気がついた。

ーあっ。

 男性がこちらを振り向こうとしたところまでは見ることができた。

 でも、もうこの瞬間には、もうひとりの自分は男性のそばにはいなく、まさに晴香の中に戻ってきた感覚があった。そして壁に映っていた男性側の映像も消え た。

ーはぁ。まだ主導権はわたしにあるんだ。

 安堵のため息をつく晴香の目に朝の陽射しが優しく映った。


 桜子が目覚めてリビングに行くと、そこでは航が珈琲を飲んでいた。

「おはよ」

「うん、おはよ。珈琲あるよ」

「自分で入れるから、座ってて」

 航がカーテンを開けると、明るい陽射しがリビングの中央まで射し込んできた。

ーあぁ、もうお昼近いんだ。

 桜子は珈琲カップを片手にテーブルに向かい、航の横に座った。いつもの正面に座るのではなく、なんとなく航の体温を感じたく、横に座り、少しだけ肩を寄 せてみた。航も少し桜子に肩を寄せてきた。

 そうやってふたりは肩を寄せたまま、足元に射し込んでいる陽射しに目を細め、珈琲をゆっくりと口にした。

「美味しいね」

「ちょうどいれたばっかりだからね」

「うぅうん。航と一緒に、こうやって飲む珈琲はやっぱり美味しいんだよ」

 そう言って、桜子は航と唇を重ねた。

 赤いパジャマが洗濯機の中がまわっている。

 泡立ちの中に沈んでも、その赤い色が見えなくなるわけではない。白い泡の下に赤いパジャマがあることは間違いなく、晴香の目に入ってくる。

 晴香は泡の中で赤い色がくるくるまわるのをじっと見つめていた。

 昨日卸したてのパジャマを一晩着ただけでもう洗っている自分がいる。でもそうでもしないと気持ちが落ち着かなかった。

ー洗っても、もう着ないかも知れない。きっと着ないんだろうな。

ーわたし、捨てちゃうのかな。お気に入りで買ったのに。捨てないよ。

ーこうやって洗って、今日の陽射しで日に干して、太陽の香りで包んであげて。

ーそれでも、やっぱり着れないんだろうな。捨てらんないし、着れないし。

ータンスの引き出しの奥にしまいこんじゃうのかな。このパジャマは何にも悪くないのに。

ーそう、何も誰も悪くないのに。

 晴香の頬に涙が伝った。

「デートしようぜ」

ー誰、まだ眠いよ。頭まわんないし。

「もう、お昼だぜ。起きなよ。まずはブランチから始めよう」

ーあー、瑛太だ。瑛太のいつものモーニングコールだ。メールでいいじゃん。

「待ち合わせどこがいい。先に行ってるからシャワーでも浴びてのんびり来ればいいからさ」

ーそうだ。瑛太に話さなきゃ。

「おはよ、瑛太」

「目覚めましたか、お姫さま」

「デートしよ」

「そう言ってるじゃん」

「うん、デートしよ」

「・・・どした」

「聞いてもらいたい話があるの。会ったの。夜に現れる女性に夕べ会ったのよ、わたし」


 梅雨の切れ間の日曜日だった。

 肌にまとわりつくうっとうしさを振り払うように、ひなのは足早に歩いていた。

 空はどんよりと分厚くダークグレーの雲ではなく、雲が青空を隠しているとしても、白く明るい雲が拡がっていた。ただ、雨は降っていないと言うだけで、梅 雨独特の不快指数に変わりはない。

「こっちこっち」

 瑛太は待ち合わせのカフェのテラスから、めざとくひなのを見つけて声をかけてきた。

ー蒸してるのに、どうしてテラスになんて座っているんだろう。

 不快指数がひなのの感情を増長させたのか、ふとひなのの脳裏を不満が横切った。

 カフェの入口に立ったひなのは胸の谷間に汗が流れるのを感じた。

ーやだ、もう。

 中に入るとひなののうなじに冷気が触れる。ここちよい冷気。

ー気持ちいい。

 そして、お店の奥、通りに面しているテラスからは瑛太がこちらを見ている。

ーだから、なんでその席なのかなぁ。

「温かい珈琲にしようっ」

 瑛太のその言葉に、テラスまで来たひなのは不満げな感情をあらわにした。

「いいから座ってごらん、わかるからさ」

 早く腰かけるように促す瑛太のゼスチャー、それは少しこっけいでもあった。

「あっ」

「でしょっ」

 何も瑛太がすごいのでもないけど、ひなのは瑛太の行動がすべて理解できた気になった。

ーこのテラスは蒸し暑くない。

 さっきうなじに感じた冷気がここでは足に絡みつきながら、店内からテラスを通って通りの歩道に向って流れている。その冷気はくるぶし辺りまで感じる。そ して湿度の低い心地よいわずかな風が同じように店内からテラスへ、顔の高さで流れている。

ーこの席って、すごい。

「ここにいるとね、冷たい飲み物じゃなくて、温かい飲み物が欲しくなるんだよ、こんな湿度の高い日でもさ」

 瑛太が微笑んでいる。ひなのは自分が感じていた不快感が流れる冷気と一緒にさらりと流れ去っていくのを感じた。

ーうん、瑛太の笑顔ってほっとするなぁ。

「それに冷たい飲み物は胃によくないっしょ」

 超まじめな眼差しでひなのを見つめてくる瑛太の行動も、それだけでひなのを安心させる。

ーなんやかんやいっても、やっぱりこのひとはわたしに必要なんだろうな。

 自然と頬が緩んできたひなのを見て、瑛太がまた微笑んでいる。

「さてと、まずはブランチにしようぜ。何がいいかな」

ー瑛太、ありがと。

「ん?」

「ありがとって言ったの」

「え?」

「誘ってくれてありがとね、瑛太」


 赤いパジャマは、クローゼットのプラスチック製の箱に詰めることにした。

ーきっと迷わなくて、このパジャマをまた着たくなるときが来ますように。

 そんな思いを込めて、晴香はクローゼットを閉めた。

ー気分転換が必要かも。

 毎回、そして幾度となく朝を迎えるとそう思う。

ー気分転換をすれば、あれは単なる夢だったんだと思えるんだ。

 でも、日が落ちると、夜の色が濃くなると、そんな都合の良い思いをしたことすら忘れるくらいに不安に包まれる。

ー今夜はゆっくり眠れますように。

 気づくと、晴香はバーのカウンターでカクテルグラスを傾けている。

ーもうひとりのわたしがいるのなら、

 ゆっくりと、でもカクテルのお代わりを繰り返す。

ーわたしが居てもいいもうひとつの世界があってもいいはずよ。

 深夜の街、深夜の公園、深夜の路地、そして深夜のバー。

 昼間とは違う表情、停滞する空気、流れる冷気、違った活気、異空間。

 同じ場所、同じ人々なのに、まったくの異空間。

 そして、やはり晴香が連想するのは深夜の動物園だった。

 幼い頃、でも記憶にはずっと残り続けている夏のある日。

「はるかちゃん、動物園いこうか」

 母親の目がいつもと違って輝いていた。

 単に優しく自分に話しかけてくるときの母親の目ではなかった。

 幼い晴香にとって、母親がどんな目をしていようと、

ー動物園に連れていってくれる。

 そのひとことが心を踊らせた。

「うん、いつ、今日、これから?」

 母親は意味深に首を縦に振った。

「今日よ」

「えっ、ほんと、でも時間ない」

「ゆっくりでいいの」

 晴香には意味がわからなかった。

「日が落ちたら行きましょう。夜の動物園ツアーなの。きっと楽しいわよ」

 晴香は何が楽しいのか、もっとわからなくなった。

「夜になってもぞうさん、見れるの。きりんさんは」

「大丈夫。ぞうさんもきりんさんも、本当の姿が見れるから」

 首をかしげながら母親に聞いたこと、そして母親の答えが今でも鮮明に耳に残っている。

「みんなね、昼間は本当の姿は見せていないのよ。そこで生きていくための見せかけなの。でもね、本当はそうじゃない。暗くなってみんなの目がなくなったと 思うと、ぞうさんもきりんさんもほっとして本当の姿を見せちゃうのよ」

「ぞうさんがぞうさんじゃなくなるの?」

「ちょっとだけ違うな。はるかちゃんの知ってるぞうさんじゃなくって、本当のぞうさんに戻るの」

 夜ってそういう時間なの、と言った母親の輝いている目がとても印象的だった。

「ママもそうなの?」

 母親は口元だけで微笑みながら、はるかちゃんもそのうちわかるわよ、そう言った。


 晴香にとって夜の動物園は「怖い」だけだった。

 園内にいる間中、正しくは入ってすぐレッサーパンダの両目が異様に輝いているのを見て、母親の後ろに隠れた。手は母親の洋服を強く握りしめていた。

「大丈夫よ、はるかちゃん。襲ってきたりしないから」

「出てくるもん。ぜったい、こっちにくるもん」

 もう半べそをかいていた。

 動物園に着くまではあれだけ楽しみにしていたのに。水筒も肩から斜めにかけて、夜だというのにお気に入りの黄色い帽子もかぶって、わくわくどきどきして やってきたのに。晴香はどうしていいかわからなかった。

 母親は洋服をつかんでいる晴香の指をゆっくりと一本一本ほどき、晴香の手をしっかりと握ってくれた。

「ママが一緒だよ」

 晴香はうつむいたまま、頷いた。

 でも「パパは」と聞きたくなった気持ちを飲み込んだ。なんとなく「聞いちゃいけない、今はママと一緒にいるんだから、ふたりきりで動物園に連れてきてく れたんだから」そんなことを幼いながらに感じ取っていたのかも知れない。そして母親もうつむいたままの晴香の幼心を読み取ったのだろうか。

「そうだね、次はパパも一緒だと安心だね。パパがはるかを守ってくれるからね」

 晴香は母親のその言葉を聞いて、その声がとってもさみしく心に響いて、今夜はもう母親を困らせちゃだめだと思った。

ー怖くったって、せっかくの動物園だもん。ママがいるもん。

「ママ、ぞうさん見たい」

 そう言ったはみたものの、その声はか細く母親の手を更に強く握りしめた。

 でも、母親に戻った笑顔を確認し、ほんの少し晴香は安心した。

ーあのあとが初めてだったのかもなぁ。

 今、晴香はバーのカウンターでマティーニを傾けている。

 蒸し暑い今夜、カクテルグラスで何杯飲んでも、どんなに店内の冷房が効いていようと、この記憶を上手に消化することはできないと思った。

「マティーニをオンザロックでいただけるかしら」

 さっきお店に来て最初のオーダー。バーテンダーは一瞬目をきょとんとさせ、もう次の瞬間には笑顔でオンザロックの準備を始めた。

「3杯くらいはいくと思うわ」

 なんでそんなことを口にしたのだろう。結果3杯になるかもしれない、でも3杯で今夜は終わりにしようと自制心が事前に働いたのか。バーテンダーは接客向 けの笑顔で微笑みかけた。

 その夜の動物園も蒸し暑かったのだろう。

 母親はハンカチで幾度となく晴香の額の汗をぬぐってくれた。そのたびに母親から優しく甘い香りが晴香に移った。

「ママ、いいにおい」

「今日は特別な夜だもの」

 夜の動物園、ふたりだけのおでかけ、こわーい動物たち。晴香にとってはもう十分に特別な夜だった。

ーでも、ちょっとだけ違ったのよね、特別の意味が。

 テスアされた冷たいマティーニは晴香を落ち着かせた。

 気がつくと晴香は母親の背中にいた。

「うぅん」

「目が覚めましたか、はるかちゃん」

 母親が顔を後ろにまわし、肩越しに晴香に話しかけた。

「次のきりんさんで動物園はおしまいよ」

「きりんさん」

「うん、きりんさん」

「きりんさん、見る」

 背中からおりた晴香に向って母親はしゃがみこみ、両手を取った。

「きりんさんみたら、帰るからね」

「もう」

「怖かったんでしょ」

「ママいるもん」

 晴香は母親の手を強く握り返した。

「そうね。でももう帰って寝よ。眠くなってるでしょ」

 そして母親の独り言が聞こえた気がした。

「ちょっとだけ寄り道するから」


 物音に目が覚めて、晴香は眠い目をこすりながらぼんやりと周りを見渡した。

「ママ、どこ」

 寂しいわけでもなく、怖いわけでもなく、意識が夢心地から覚めないまま、ドアの先に薄明かりを見つけた。

「ママ」

 無意識に薄明かりに向って近づいていくと、聞いたことのないうめき声が薄明かりの中から聞こえてきた。

ーこの先にママがいる。

 しかし、晴香はその薄明かりの中に入ることができなかった。

 母親の顔が薄明かりの中に見えた。

 口を半分開けているような、もうろうととろけているような、見た事もない意識がなくなっている、もしかすると母親ではない人影がそこに見えた。

「ママ」

 晴香のこぼれるような一言で、その人影と晴香は目を合わせた。

ーママ。

 人影は顔を左右に振り、また濃度の濃いうめき声を漏らした。

 そのときその人影の片足を持ち上げている、そんなシルエットのもう一つの影が振返り、晴香に微笑みかけた。

「ママーっ」

ー大声を、いや大声というよりは絶叫した記憶がある。

 微笑みかけたもうひとつの影があまりに恐ろしく、ほんとうにあれは影で、それも邪悪な影で、母親を見た事もない人影に変えた後は自分にも近寄ってくる、 近寄って自分も影にされてしまう、そう瞬間的に思ったのだろう。

 その場所での記憶はここまでだった。

「これで終わりにするわ」

「はじめにおっしゃられたとおりの3杯目ですね」

 晴香はオンザロックのマティーニグラスを目の高さにかざし、ロックアイスを軽くまわすと、バーテンダーに微笑みかけた。

ーこの微笑みに何の意味があるのだろう。

 あのときも晴香は微笑んでいた。

 気づいたら、目の前にパパの寝顔があった。

 ここしばらく、どのくらいのしばらくだろう、かなりのしばらく。

 晴香はひさしぶりに父親の顔を見れて、微笑んでいた。

 でも、その父親の隣には見知らぬ髪の長い女性が寝息を立てている。

 晴香は父親の顔を見れたうれしさと、見知らぬ女性との組み合わせに違和感を感じた。

ーパパ。

 だめ、話しかけちゃいけない。

 とっさに晴香の脳裏に「だめ」という言葉が何百何千と飛び回った。

 父親が寝返りをうって女性の方に顔を向けると、女性は寝ぼけたまま父親の首筋にキスをした。

「はるかちゃん、起きなさい、朝よ」

 母親の声で目が覚めた。

 母親はすがすがしい笑顔で自分のベッドに横になっている晴香を覗き込んでいた。

 いきなりきょろきょろしだす晴香に母親はまた話しかけた。

「疲れたのねぇ。夜の動物さんたち、怖かったものねぇ」

 そうではないと言いかけて、晴香はまた部屋中をきょろきょろした。

「影がいたの。こわい影がいたの」

 母親の顔が曇った。触れてはいけないことを口にしたと晴香はとっさに思った。

「でもね、パパにも会ったの、パパは気づかなかったけど」

 横に見知らぬ女性が寝ていたことは言わなかった。

「変ねぇ、きりんさん見た後は、はるかちゃんはずっとママの背中に張りついていたんだけどな」

 晴香は深堀しちゃいけないと、曖昧な笑顔で母親の胸に飛び込んだ。

ーほんと、ある夜はじめてもうひとりの自分が自分を離れたんだろうな。それがよりにもよって、父親の浮気、それに気づいた母親の浮気、その両方に出 くわしちゃったんだもんなぁ。

 今度は自分に苦笑いを向けながら、晴香は3杯目のマティーニを飲み干した。


 桜子と航は大きな公園へと向う散歩道を歩いていた。

 航は桜子よりもほんの少しだけ歩くのが早い。本当はもっと早いはずなのだが、今日の航はいつも以上に気を使って歩いているように、桜子は感じていた。

 それでも桜子がふと考え事でもしようものなら、気づいたときには航から二、三歩遅れてしまう。でももちろん先に気づくのは航の方で、振返りながらにこに こしている。

「やっぱり歩くの早いよなぁ」

 桜子は航のその言葉に首を横に振る。航の笑顔に誘われるように、桜子も微笑みながら。3回目に航が振返ったとき、航はまたにこにこしたまま、でも何も言 わずに桜子に右手を差し出してきた。

ー手をつなげばいいんだよ。

ーなんかはずかしいな。

 今年の夏は涼しいとはいえ、まだまだそれなりに暑く、これから陽が傾きかけるこの時間では航の右手も少し汗ばんでいた。

「航、汗かいてるね」

「生きてる証拠さ」

ーそう、生きてる証拠。わたしと航はこうして会話もできて、手もつなげる。

 公園の入口に立つと、涼しげな風を感じた。少し汗ばんだから、ちょっとした風でも涼しく感じたのかもしれない。でも、その風はふたりに会話を始め るきっかけを与えてくれた。

「いい風だね」

「うん、気持ちいい」

 歩いている間中、航の笑顔は絶えなかった。大げさな笑顔ではなく、さりげない笑顔、ほっと安らぎを与えてくれるような、どこか優しい笑顔。それ以上は何 もなく、昨夜の桜子の部屋でのできごとについて、ましてや桜子がそれまで誰とどこで飲んで何を話していたのか、問いただすような言葉も仕草もなかった。強 いていうならば、航が歩く速度をいつも以上に気をつけていることだった。

 桜子も昨夜のことを話すきっかけを探しながら歩いていたということはなかった。「話そう」と思いながらも、航から差し出された右手に自分の左手を絡め、 そのあと何となく腕を組んでしまった。すると「話そう」という気持ちを航から伝わってくる安堵感が包み込み、もういつまでもこのままでいい、桜子の心はそ の気持ちでいっぱいになっていた。

 入口から見える公園はベンチがどこも空いていた。ひとっこひとりいない公園、ベンチにも木陰にも、ブランコにもジャングルジムにも、砂場にも、そ れは閑散としているというよりは、一種異様な光景だった。

 少しでもそう思うと、それも桜子だけではなく、航も同時にそう思うと、せっかく気持ちよく感じた頬をなでる風もまったく違う種類の風に感じてしまう。少 し汗ばんだふたりが感じたその風も、ふたりの体温を盗み取るようにまとわりついてくる、生きるものにとってその生命力をいつのまにか低下させてしまうよう な、そんな風に感じてしまう。

「あのね」

 桜子は誰もいない公園に向って、話し始めた。航もそれがあたりまえのように桜子の顔を覗いた。

「ゆうべ、晴香さんに会ったの」


 航は何が起こっているのか、整理しようと珈琲に口をつけた。

 航の部屋からは窓ガラス越しに視界を邪魔するものはない。バス通りを挟んで直線距離にして歩けば10分ほどのところに丘がある。丘の斜面には戸建ての家 が点在している。もうこの時間だと点在している家の灯もほとんどなく、丘を照らしていた月明かりも雲に隠れつつあった。

ーひなのは元気かな。

 唐突にひなののことが脳裏をかすめた。

 すると最近会っていない瑛太のことも気になり始めた。

ーふたりはちゃんと続いているよな。

 そう思いながら、自分と桜子の関係を思い出してみる。

 相談事もするし、何かあれば連絡もくる。

 涙を見た事もあれば、見られたこともある。

 けんかをしたことがないと言えば、うそになる。

 セックスもする、キスもする。触りあうことももちろん。

 お金の貸し借りだけはない。

 好きだと、愛していると、口にしたこともない。

 そして、まったくコンタクトを取らなくなったことも何回かある。

 料理は作ってもらったことしかない。

ー付き合ってるんだろうな。

 公園で話をはじめた桜子の顔を夜の窓ガラス越しに思い出してみる。

「いとおしい」

 ライトダウンされたキッチンに人気を感じた。

 航はリビングのソファに座ったまま、視線をキッチンに向ける。

「それは愛おしいっていうんだよ」

 キッチンに輪郭が浮かび上がった。でも顔は判別できない。

「いいなぁ、そう思ってくれるひとがいるって」

 肩より少しだけ長い髪が、なんとなく見て取れる。

「わたしのこともそう思ってくれないかなぁ」

「ぼくがそう思えば、きみは救われるのかな」

「うぅん」

 輪郭が首を横に振ったように見えた。

「同情じゃだめ。それにわたしのことだけを愛おしく思ってくれないともっとだめ」

「きみのことをぼくは知らない」

「わたしはあなたのことを知っている」

 航はソファから身を乗り出した。

「どうして知っているの。きみが藤崎晴香だから?」

 輪郭は少しだけ沈黙の時間をとり、航はまだ近寄ってはだめだと直感しソファに座り直した。

「今はまだ完全に晴香じゃないけど」

 ゆっくりと話す輪郭の口調に航は冷気を感じた。

ーもしかしたら。

 そして、闇夜を写している窓ガラスに視線の先を変えた。


 航が思った通り、キッチンでは輪郭すら完全にわからない姿が、窓ガラスには鮮明に見て取れた。日中見るように明るくすべてが見えるわけではなかっ たが、窓ガラスに映った姿はきちんと存在感を放っていた。

 そしてその女性も窓ガラスからしっかりと航を見据えていた。

「きみがそこからぼくを見ていられるのも夜のうちなんだろ」

ーそうね。

「じゃあ今回は多少は時間がありそうだな」

 その女性は苦笑いをしたのか、どうしようもない悲しさを一瞬表したのか、航は判断できなかった。

「ところできみは今、キッチンにいるの?窓ガラスにいるの?」

 変な表現だなと航は自分でも思ったが、今度は女性に笑みが浮かんだ気がした。

「うーん、キッチンに現れてるんだけど、それを写している窓ガラスの方がぼくに伝わりやすいってことかな」

ーどうなんだろ、わたしにもわからないわ。あなたが話やすいほうに向って話せばいいんじゃないの。

 キッチンに感じる人影は相変わらずとらえどころがなさそうなので、航は窓ガラスに向って話をすることにし、少し冷めた珈琲にまた口を付けた。

 ほんの少しの沈黙の間に航は多少肌寒さを感じたので、ソファの背に掛けてあったトレーナーを肩にかけた。そして航はやはりここから話を始めた。

「きみは藤崎晴香なのかい」

ーいきなりね。

「避けて通れないだろ」

 足元だけ、正しくはくるぶしまで少し冷気が増したような気がした。

ーまだ晴香じゃないわ。

 まだ?

ーそう、まだね。

「、、、ぼくが口に出さないことも読み取れちゃうのかな」

 くくくと輪郭が笑った気がした。

ー全部がぜんぶ読み取れるわけじゃないから、怖がらなくてもいいのよ。きっと波長が交差したときとかじゃない。

「余計わかんないよ」

ー例えば気が動転したときとか。そう言えば分かり易い?

 なるほどね。

「確かに「まだ」ってのに心が反応したね」

 今度は足元の冷気が揺れたのを航は感じた。

ー夜しか出歩けないって、つまんないのよね。

「でも、いろんなところに出没して、いろんなもの見れてるから楽しいんじゃないの」

 航の脳裏に、ひなのの話、桜子の話が思い出された。そして楽しいとは決して言えないだろうが、先日の未明に桜子の洗面台の鏡に現れていたこの女性のこと も。

ーでもね、藤崎晴香はひとりなのよ。

「その晴香を夜のきみが独り占めしたくなったってこと?」

 窓ガラスの映っている女性の眼がキラリと光ったのを、航は見逃さなかった。

ーうぅん。

 そして女性の輪郭は首を横に振った。

ー独り占めとか、そんなんじゃないわ。


ーわたしが希望して、わたしが存在しているわけじゃないのよ。

 航はだまって頷きながら、その女性の次の言葉を待った。

ーあの子も、そう昼間のあの子も希望してわたしを生み出したわけじゃないし。

 でも、窓ガラスに映るその女性の表情は活き活きとしているように、感じた。

ー母親の淫らな、そうね、あのときは淫らなんて思いもよらなかったんだろうな。怖くって自分も襲われちゃうって感覚が、父親に助けを求めたのね。

 ため息が聞こえてくるようだった。

ーそしてわたしが父親のもとへ飛んだ。

ーちがうわ。

ーまだ、そのときはわたしじゃなかった。

ーあの子の意識が父親の場所に飛んだのよ。

ーあのときはまだわたしはあの子の意識の中にいたのか。うーん、よく分らないわ。

ーただ、あの子はさみしくなると、ひとりでいることに押しつぶされそうになるとその度に、会いたい人に向けて意識を飛ばしだしたのね。意識を飛ばせば会い たい人に会えるってわかったから。時間を誰かと共有することで自分を救おうとしてね。

ーすごいことよ。さみしいって気持ちが意識を飛ばせるようにしたんだから。

ーそれを繰り返して、いつの間にか、それを楽しいと思うようになったのね。

ーそれがいいことだったのかはわたしにも分らないわ。

ーでも、その繰り返しがわたしを覚醒させたのかなぁ。

ーて言うか、覚醒って言うよりももうひとりのあの子が、あの子の寝入った後にその楽しいことを楽しみはじめた。

ーそれがわたし。

「でも、助けて欲しいとぼくに言ったんだよ」

 航は饒舌すぎるその女性に少し反論してみた。

ーそれはあの子。

ーもともとあの子が飛ばしている意識がやっていることを、わたしがやっているだけ。

「あの子の意識が今のきみだと」

 その問いかけにはその女性は答えなかった。

ーでもね、いろんなものを見ていると、思うのよ。

ーわたしだったらもっと積極的にいろんな人と話ができる。好きな人ができれば告白もしたいって思うじゃない。

ーだからわたしがあの子になるの。あの子がもう一歩だけ踏み出せなかった、その一歩をわたしだったらかるーく踏み出せるもの。

 ガラス窓の眼が光り、航は足元に爬虫類の肌の冷たさを感じた。

ーそう、わたしがあの子になって、するともうあの子はもういらないのよ。

ー存在そのものをわたしだけにする。

ーだってうじうじした性格なんて、うっとうしいだけじゃん。

ーそれに藤崎晴香がふたりもいたんじゃ、みんなが混乱するでしょ。

ーわたしがもっともっとあの子の人生を楽しいものに変えるの。

 ガラス窓の口元が笑っている。

ーあら?そのときはもうあの子の人生じゃなくて、わたしの人生ね。

ー皮肉なものねぇ。あの子の意識から生まれたわたしがあの子の人生を楽しいものにして、でもそのときにはあの子はもう楽しいってことが分らない。

ーふふふ。ね。

「でもさ」

 航は桜子から聞いた晴香の話を思い出し、ガラス窓に向って話しかけた。


 重苦しい公園の空気、航も桜子も感じていた。そして目の前に拡がる公園に対して身構えるように桜子は航の腕をぎゅっとつかんだ。

「気のせい?気にしすぎ?」

「いや、そうじゃないよ、たぶん桜子と同じことを感じていると思う」

 航は桜子に左腕をまくり上げて見せた。航の左腕には鳥肌が立っている。

 桜子はその腕を目にすると、唐突に、でも肩の荷が下りたように夕べのことを口にし始めた。ただ桜子も、そしてその話しに耳を傾ける航も公園の入口から一 歩も中に入ろうとしない。とくに桜子の視点は公園の中に向いたまま、そのまま淡々と話し始めた。それは航に話して聞かせているというよりも、レコーダーか ら期せずして古い音声が流れ出したような、誰に向って音が鳴っている、何のために再生が始まったのかわからない、声と言うよりそんな機械的な音だった。

ー桜子はどこを見て話しているんだ?

 航は公園の中をじっと見つめながら話し続ける桜子の横顔を見つつ、それでも桜子の言葉を聞き漏らさないように聞き入っていた。今ここで「桜子、どうした んが一体」と月並みな台詞で桜子の意識を自分に戻したとしてもなんにもならない、航はそれだけは自分なりに確信していた。とにかく情報をひとつでも多く手 に入れないと、それからじゃないと今の桜子も楽にしてあげられないし、鏡の中のあの子もきっと救えない。だから航は平常心を装った、桜子が話すのは当たり 前のような表情で桜子の話に耳を傾けた。でも航は桜子の手を握っている右手の力を少しだけ強めていることに気づいていない。

「ずっとひとりだったの」

 航は口をはさまないように聞いていた。

「好んでひとりでいたいわけじゃないのよ」

「幼い頃母親や父親との間にあったことがトラウマになっていると思うの」

「それがきっかけで夜いろんな人に会えるようになったんだ」

「最近はそれが怖くなってるんだけど」

「いつのまにか自分が自分でコントロールできなくて」

「そのうち自分じゃなくなるんじゃないかと」

「自分がここにいることを、ここに存在していることを覚えててもらいたい」

「わたしの存在に気づいて欲しい」

「知り合いにならなくてもいいの」

「その子知ってるよ、見たことあるよ」

「そのくらいでもいい」

「でも、少しだけでも話せて、やっぱり知りあいになって、輪に入れてもらって、そして連絡を取り合えるような友だちになれれば」

「だからあなたのその口紅、わたしもしたいなぁ。だってとっても綺麗で印象的なんだもん」

「わたしがつけてもみんな振返ってくれるかなぁ。綺麗に見えるかなぁ」

「航、痛い」

 航がその声に我にかえると、桜子がつないだ左手を航の目の前まで持ち上げていた。

「痛いよ、航。手をつないでくれるのはとってもうれしいけど、ちょっと強すぎ、手が痛いもん」

 桜子がちょっと困ったような表情で、そっと包んでねと言っている。

「ごめんごめん」

 航はつないだその手の力をそっと緩め、同時に桜子を自分の胸に引き寄せた。

「ありがとう」

「何、どうしたの航、、、はずかしいよ」

「少しだけ見えた気がしたんだ」

「何?何?」

 いつしか公園では子供たちが走り回っていた。若いおかあさんがその子供たちを優しく見守っている。笑顔で歩いているカップルも見える。ベンチでは おじいさんがおばあさんと日向ぼっこをしているようだ。

「こんなとこでいちゃついてるー」

 少年が唇を重ねた航と桜子をからかうように公園に飛び込んでいった。


 桜子から公園で聞いたあの子の気持ちを、航は窓ガラスに映るこの女性に伝えようと思った。

「でもさ、あの子、藤崎晴香もその一歩を自分から踏み出そうとしているんだぜ」

 窓ガラスの女性の表情が変わったように航は感じた。

「現実の自分の存在をどうにかして周りに知ってもらおうとしているのは、きみも知っているだろう」

ー知っているわ。

 苛立たしい感情が伝わってくるかと、航は想像していた。

 が、窓ガラスに映っているのは寂しそうな表情だった。

ーだって、まだわたしたちはふたりとも存在しているんだから。それに母体はあの子の方だし。

 ため息が聞こえた気がした。

ーあなたの彼女の真っ赤な口紅のことでしょ。

ーちょっと思い出してみてよ。不思議だと思わない?

 航は視線を窓ガラスからそらし、あの夜のことを思い出してみた。

ーそんな考えなくても、簡単よ。

ー助けてと言いたいのはあの子。でも鏡に映っていたのはわたし。わたしはあの子と入れ替わろうとしている。助けてなんて言うわけないじゃん。ましてや彼女 の口紅で鏡に助けてなんて書かないわ。つじつまが合わないでしょ。

「少なくともふたつのことが考えられるけど、ぼくは」

ー聞きたくないわ。

「知っているんだろ」

 窓ガラスの女性が視線を反らしていた。そして何も答えようとしないし、答える気もない、そんな雰囲気だった。

「もっと複雑かも知れないけど、簡単なことだけでもふたつだよ」

 航は勝手に言葉を続けた。

「桜子の部屋へ飛んできたきみを使ってあの子は自分の気持ちを伝えさせた。伝えさせただけじゃなく実際に口紅で鏡に文字を書かせたんだ。たぶんきみが気を 抜いた一瞬か、もしくは意識の隙間をぬったか」

「でも、もうひとつはもっと簡単」

 窓ガラスの影が揺れた。

 航は優しくゆっくりと言葉を続けた。

「きみはぼくに話しすぎたのかも知れないね」

「きみ自身も助けて欲しいんだろ」

「きみはあの子のことが好きで、でもあの子はそれに気づいてないんだろうね」

「好きだからこそ助けたい。でもそれだと自分が消滅するかも知れない。自分の意識がいつしか芽生えちゃってるから自分を消滅させるなんて想像もしたくな い。そうじゃない?」

 窓ガラスの表情が揺れている。

「だからもっと簡単って言ったんだよ」

ーそうかもね。

「悪びることは簡単かも知れないけど、自分に素直じゃないから心が疲れるよね」

 窓ガラスの女性がうつむき加減で首を横に振っている。

「きみがあの子を一番助けたいって思っている。それだけだよ」


 それからしばらくの間、航は窓ガラスに映る女性と他愛もない話をした。いや、他愛もないのか、そうじゃないのか、ふたりにとってもしかしたら、もうどう でも良いことなのかも知れなかった。

 時折、その女性も笑みを浮かべているのが、航にもわかる。彼女の笑顔を感じるたびに航も優しい気分になれるのがうれしかった。

ーどこで彼女と知りあったの?

ー晴香?桜子?

ーどちらでも。

 晴香のことを話すと少しややこしくなる気がした。

ーじゃ、桜子とはね、、、

 窓ガラスの彼女が身を乗り出してきたような気がした。

ー興味あるのかい。

ーだって人と人が知り合うのってさ、俗っぽいかも知れないけど、ひとつの奇跡だと思うよ。すれ違うだけの人、目が合ってもそれっきりもあるし、言葉を交わ しても記憶にすら残らないときもね。

ーそうだね、知り合うのって、すごいな。

ーそして続くとか、続けるとか、もっとすごいと思う。そのためのエネルギーや時間を惜しげもなく使うんだから。限られた時間の中で、大事なエネルギーをそ の関係を維持するためだけに使うんだから。

ーうん。だから自分にとってその相手が大切な人になっていくんだろうね。

ーそういうことを経験してみたいんだ。

 ぽつりとその子が言った。

ーまだそんなことに出会っていないもの。

 大丈夫だよ、いつかそのうち、近いうちにそんな状況にばったり遭遇するよ。

 航はそう言えないもどかしさを飲み込んだ。

ー晴香と仲良くやっていけるといいのにね。

 彼女はちょっとだけ冷笑した。

ーわたしが居たことの記憶はずっと残るかしら。

ー忘れようとするかも。

ー正直じゃん。

 何か手はないものか、何かしてあげることはないものなのか、手は差し伸べられないのか、

 航は胸に酸っぱいものが湧き上がるのを感じた。

ー珈琲入れるよ。

 航がソファから立ち上がり、窓ガラスにもう一度視線を向けると、もうそこには彼女の姿はなかった。

 窓ガラス越しには白み始めた風景が見えた。

 数歩窓ガラスに近づくと、

「ありがとう」

 指で書いたような文字が窓ガラスに残っていた。

ーありがとう、か。

 結局これから自分は何ができるんだろう、航はそう思いながら書かれた文字を口にしていた。


 その日の夜も、3人はまたこのバーに来ていた。

 誰かが誰かを誘う、そんな集まり方じゃなく、ふらりとそのカウンターに座っているといつしか2人が並んでいて、気づくと3人で談笑している、そんな集ま り方だった。

 たまには桜子とひなのは事前にメールのやりとりをして落ち会うこともあったが、晴香と予定してここで会うことはなかった。

「ねぇねぇ、あの口紅どうだった」

「ありがとうね。でもやっぱりあの色は桜子さんの色だって改めて感じたわ」

「そうなんだ」

「うぅん、大丈夫。だってきっかけのひとつだもの。まずは口紅でわたしなりの色を探してみる」

「なになに。わたしその話、知らない」

 2人のやりとりに、残り少なくなったホワイトレディをくいっと飲み干したひなのが割り込んできた。

「口紅がどうしたの」

「覚えてないんでしょ、ひなのちゃんは」

 ひなのはすぼめた唇を少しつきだし、マスターにホワイトレディのおかわりを頼んだ。

ーバリエーションで、サイドカーではいかがですか。

「あっ、わたしにもおかわりください。わたしはこのまま変えずにドライマンハッタンで」

「あの夜もそれだったね。えーっとわたしはトム・コリンズ。今夜はのみすぎないように」

 マスターは口元に少し笑みを浮かべながらやさしく頷き、3人のための仕事にとりかかった。

「あれから何回ここで会ったんだろうね」

「季節もクリスマスかぁ」

「まだ続いてる?」

 桜子のその言葉に、晴香は自分に起きている夜の現象を、ひなのは瑛太との関係を連想した。

「続いてるよ」

 そしてハモるようにふたりが答えたのには、桜子もふたりにも笑いを誘った。

 噛み合わない話も、そのズレや隙間をマスターのカクテルが上手に埋めてくれ、3人はそれぞれにそれぞれの話を都合の良いように解釈しながら、和気 あいあいと時間はすぎていった。

ーもうひとりの晴香さんはどうしてるの。

 ひなのがカウンターに少しだけ頼りながらレストルームに行ったとき、桜子は晴香に顔を寄せそっと聞いてみた。

ーわたしが寝入るとまだ夜遊びしてるみたいよ。

 その言葉の響きには軽やかさが含まれていたが、晴香の視線は桜子から静かにカクテルグラスに移った。

ーひとつの身体を奪い合うことはもう心配ないの?

ーどうだろう。今のところは上手にシェアできるようになった気がするけど。

ー何があったの。聞いてもいいかな。

 晴香は桜子の問いかけに、胸の奥にチクリとするものを感じた。

 桜子は毎回心配してくれている。でもまだうまく説明できない。説明をひとつ間違うと、せっかくこうやって知り合いに、友だちになれたのに、すべてが壊れ てしまうかも知れないから。

 わたしの分身はかなりの回数であなたの恋人に会いに行っているのよ、晴香はそんな言葉をドライマンハッタンで飲み込んだ。

ーひとつだけ言えることはね、ふたりとも消えたくなくって身体はひとつしかないってこと。それを独り占めしたかったんだけど、結局ふたりはひとりなんだか らお互いの気持ちも言い分もわかっちゃうのよね。

「ふーん、そうなんだ」

 ひなのが戻ってくるのが視界に入った桜子は普段の話し方で話を締めくくった。

「なになに」

 ひなのは、よいしょっとカウンターに戻り、その戻り方はまた3人を談笑に戻した。

 

 桜子とのクリスマスの夜をすごした翌夜、航はひとり、初めて訪れるバーでグラスを傾けていた。

「何にいたしましょう」

「ジンは何がありますか」

 航は若いけど落ち着いた感じのするバーテンダーから勧められたジェネバをロックでもらった。

ーメリークリスマス。

 さっきまで口を少し開き吐息を漏らしていた桜子が、耳元でささやく。

ーメリークリスマス。

 うなじに唇をつけ、クリスマスの言葉を返す。

 桜子はまた吐息を漏らした後、くすぐったいと笑って航と向き合った。

ー何かいいことがあったみたいだね。

ーあのね。晴香さん、まだ治ってないの。もうひとりの晴香さんはまだいるんだって。

ーそれはいいことなの?

ーわからないけど、今のところふたりでうまくやっているみたいよ。何があったんだろうね。

 航は「わからないな」と答え、シーツに潜って桜子の右の乳首をかるく噛んだ。

 カウンターに8名が座れるだけのこのバーは天井も高く照明も薄暗い。背中側の通路もちょうど人が1人歩いて邪魔にならないほどの幅が確保されてい る。繁華街からも外れ、看板もなく、この場所を目指さないとたどり着けない、そんなお店だった。そして終電を途中下車しここに来た航は、航以外のお客もい なくひとり静かな時間に包まれていた。

 来てみたかったんでしょ。

 たまたまネットで見つけてね。この時間だったら入りやすいかなって。

 わざわざ終電途中下車する?

 タイミングってそんなもんさ。

 計画性がないのよ。

 言葉を音にすることなく、いつの間にか隣りにちょこんと座っている晴香と言葉を交わす。

 晴香は頬杖をつき、じっと航を見つめている。目を凝らすと晴香の身体越しに隣の椅子が透けて見える。

 航はグラスを傾けるたびに、そっとそんな晴香の存在を確認する。

 晴香さんときみがうまくやりはじめていると桜子から聞いたよ。

 そうね。だってひとつの身体なんだし。うばいあって、もしわたしが消えるようだともうそばにも来れないし。でもね。

 ん。

 航のそばにいたいのは、わたしだけじゃないのよ。晴香の方がきっと昔から航のそばにいたいと思ってたんだから。

 グラスを口元に運ぼうとした航の手が止まった。

 昔の晴香さんのことは記憶にないよ。

 だと思う。

 残りのジンを喉に通すと、航はここにいる晴香とじっと視線を重ねた。

 

 晴香はベッドサイドに立っている半透明なもうひとりの自分をぼんやりと見上げていた。

ーおかえり。

 丁度もうひとりの自分が晴香自身に戻ろうとしたときだった。

 晴香の一言がふたりの間にほんの少しの時間を作った。

ー素直に受け取っていいのかなぁ。

ーさぁ、どうでしょうねぇ。

 その返答に半透明な晴香がくすりと笑った。

 そして、ベッドの中の晴香もそのちっちゃな笑いにつられて口元が緩んだ。

ーまた航さんとこ?

ー見てたんでしょ?

ー見てたんじゃなくて、見えてたのよ。でも、いいね、気軽に話せるようになって。そうやってどこにでも行けるってうらやましいわ。

 また半透明の晴香はくすりと笑った。ただ今度の笑いは何かを思い出しているようだった。

ーあなたが寝入ってから朝までって制限あるんだけど。正確には日の出か、またはあなたの目覚めまで、ね。

ーそうね。おかげさまでわたしは夢を見ない夜がなくなったわ。

 半透明な晴香は、目の前で半分眠っているはずの晴香の中に戻るのを少しためらった。

ー何が言いたいの?わたしを無くす方法が見つかったの?

ーあなたこそわたしの身体を独り占めしたかったんじゃないの?

 半透明な晴香は首を横に振りながら、そっとベッドの中の晴香に戻っていった。

 朝日が寝室のカーテンの色を外から明るくし始めている。その色をぼんやり見つめながら晴香はベッドから起き出し、ほんの今までここにも立っていた はずの自分と立ち位置を重ねてみた。

 その場所から改めてまだ自分の体温が残っているベッドを見下ろし、肩越しに朝日の気配を感じる。わたしのこの肉体を、昼間のわたしの時間までも自分のも のにしようとしていたもうひとりの自分の雰囲気が変わってきたのを何となく感じた。

 以前のように挑戦的でもなく、また強気に昼間の晴香を否定していた最近までのもう1人の自分とは、印象が変わっている。現実の肉体はどうあがいてもひと つしかなく、虎視眈々とこの肉体を狙っていたはずなのに。肉体ごともうひとりの晴香が主導権を握って、昼間の、そうすべての晴香という時間とそれに関わる すべてのものを自分ひとりのものにしようとしていた。

「何が彼女をそうさせたんだろう」

 晴香はすでに答えがわかっている質問をあえて口にしてみた。口にすることでもうひとりの自分を理解しているのだと、少しでも自分に言い聞かせるがため に。

ー元はこのわたしなんだから、同じ人に好意を抱くのは自然の流れなんだろうな。

 中途半端かも知れないが、今のまま昼と夜の別々の晴香が存在する方が幸せなんじゃないかと最近考えるようになってきていた。

ーきっともうひとりのわたしも同じように思い始めているじゃないかな。それに、、、

 せっかく仲よくなった桜子の彼氏を奪えてもまた自分はひとりになってしまう、桜子とひなのとの楽しい時間を思い出すと、航がそばに来てくれてもそれだけ だと辛すぎると。

 目覚めの珈琲を入れて、部屋中に珈琲の香りを満たしながら、晴香は思っていた。

ーもうひとりの晴香を通せば桜子を失わず、航との時間を共有できるんだもの。

 それもいいのではないかと。


 その晩、遅い時間に航は瑛太と待ち合わせをしていた。

 いつものバーではなく、顔見知りがいないバーを選んでみた。

 いつものバーでもそれほど深い知り合いがいるわけではなく、会釈程度の知り合いくらいしかいないはずだが、何気にお店を変えてみた。

 小さな蝶の羽ばたきが地球の裏側で台風を起こす、最近航が電車の中刷りで目にした一文。そうかも知れない。だったら身近な何かをほんの少しでも変える事 によって、何か思いもつかない変化が起こるのかも知れない。安直だとは思ったが、航は試しに今夜のバーを変えてみた。即効性なんて期待はしていない。ただ 気分の切替えにはなるだろう。

「悪い、もう少し遅れる」

 航はいつもより遅い時間で瑛太と待ち合わせをしたにも関わらず、また地下鉄の中にいた。電車が途中駅に着くタイミングで携帯からメールを送った。

 メール送信ののち、ひとつのめの駅についても、ふたつめの駅でも瑛太からの返信は確認できないでいた。

 終電近い地下鉄はほろ酔い気分の乗客が少しずつ増え始め、歓楽街の駅を出る頃にはそれなりの混雑となっていた。

ーあれ。

 航の斜め前で、電車のドアに軽く押し付けられるようにして携帯を覗いている女性の横顔を見たとき、航は不思議な感覚に包まれた。

 そこにいる女性の輪郭のはっきりとした眼、ちょっと小さめのでも形の整った鼻筋、そして淡いピンクの清涼感のある唇、すべてが晴香のそれに酷似してい た。

ーもうひとりの晴香が姿を見せるには早い時間帯なんだけど、じゃあリアルの方かな。

 最近、現実と異体験の境がグレーになってきてるんじゃないかと、航はたまに感じることがある。そんなときに感じる足元が数センチ地上から浮いている、目 の前のものに触ることができないんじゃないかという、そんな不思議な感覚が、今この電車の中で航を包んだ。

ー目が合わないかな。

 目が合えば、その女性の反応ですべてが解決する、自分がこんな感覚になっている以上、相手の反応に頼ろうと、航は思った。

 そんな思いで、テレパシーでも送り込むように、航は押された身体をドアに任せるように立ちながら携帯を覗き続けている女性をじっと見つめ続けていた。

「大丈夫。お前はいつも遅刻するから、今夜は先にひなのを横に座らせている」

 次の駅に着いたとき、突然航の携帯が震え、瑛太からの返信を知らせた。

 ふいをつかれたように震えた携帯で多少慌ててメールを確認した航が意識をまた女性に戻したとき、まさに開いたドアの動きに合わせるように女性は顔をあげ た。

ーそうだよな。ここは現実世界そのとおりなんだから。

 顔を上げて一度車内に目を向けた女性は晴香に酷似なんてしていなく、当然まったくの別人で、下車する人々の流れに身を任せるようにその駅で電車を降り た。

ー意識しすぎてるのかな。

 航はほんの少し安堵する気持ちを覚えながら、瑛太に返信を送った。

「もうすぐ駅に着くよ」

「今夜は3人みたいだけど、まっゆっくり飲もうぜ」

 瑛太の今度の返事は早かった。

 いつものメンバーに桜子だけ欠けている今夜。

 少しだけ何となく罪悪感を感じつつ、航は携帯を胸ポケットに仕舞った。


「終電に乗ってご登場」

 瑛太が笑いながらカウンターから手を振ってきた。

「おそいぃ」

 ひなのの笑顔もくったくがなかった。

 航はコートを入口横のポールに掛けると、すべりこむように瑛太の右隣りに座った。

 ひなのは入口から遠い方、瑛太の左隣りからカウンターに左頬をつけるような仕草で笑いかけてきた。

「マスター、ホットウィスキー」

 冷たい頬に両手を当てながら、航はオーダーをすませた。

「おいおい、何かいつもと違うな」

「そうよ。変」

 今度は出されたホットウィスキーを両手で包むように口に運んだ。

「おっ温まるなぁ」

 瑛太とひなのはそんな航をじっと見つめ、航の次の言葉を待っていた。

「変じゃないよ。いつもと変わらない」

 そして香り立つウィスキーをまた口にした。

「でも、たまには少し変化をもたせてもいいだろ」

「それもちょっと意味深だろう」

 瑛太は間髪を入れずに言葉を返した。

 ひなのもそれに続く。

「そうよ、そうよ。桜子さんもいなくて、いつものお店でもない。絶対、何か変。実は何かあるでしょ」

ー終電も終ったばかり、夜はまだ長い。

 航は遅れてきたせいでアルコール分量的にふたりに出遅れた分を取り戻すべく、2杯目からはモルトウィスキーをストレートで頼んだ。

「やっぱり変だぜ。いつものようにジンのオンザロックにしないのか」

 マティーニをオンザロックで飲んでいる瑛太が、ライトに照らされているストレートグラスに首をかしげる。

「でも、きれいね。その琥珀色」

 航の目の前からグラスを取り上げると、ひなのは自分の目の高さにグラスを持ち上げ明りにかざした。

ー確かに綺麗な色だ。

 3人でなんやかやととりとめのない世間話に花を咲かせているうちに、店内はひとり去りふたり去りしていた。カウンターのひとりは半分うたた寝をし ているようで、唯一のテーブル席のカップルは自分たちの世界を醸し出していた。

「ちょっとお手洗い」

 ひなのが立ち上がったタイミングで、瑛太が少しだけ航の方に身を入れ、誰も聞く耳を立てないだろう今の店内なのに、小声で話しかけてきた。

ー何があった。

 航はその言葉を待っていた自分を感じた。

 自分から言い出すべきなんだろうけど、何となく言い出せずにいた自分を認めた。

ーひなのちゃんのところに最近、以前のように深夜に人影は現れなくなってるんじゃないか。

 瑛太は少し驚いたように目を見開き、

ー確かに最近は話は聞かない。聞き出して思い出させてもよくないので、俺の方から聞き出そうともしていない。でも。

ーでも、たぶん現れていないと瑛太も感じているんだろう。

ーそうだよ。

ーしばらくは現れないと思う。もしかしたらかなりしばらく。そしてもう現れなくなるかもな。

 瑛太はマティーニのお換わりをそっと目配せで注文すると、したり顔でまた航側に身を入れた。

ー何かあったんだろう。

ーあったんじゃないよ。続いてるんだ。

 瑛太の肩越しにひなのが戻ってきたのが見えて、航は言葉を止めたが、そこに立っているのはひなのではなかった。

 壁の木目が少し見えるほどの透明な存在感から、そこにいるのは晴香なんだと、それももう1人の晴香なんだと航は思った。

「おっ戻ったのか。次は何を飲む」

 航の視線を追うように左側に振返る瑛太は、戻ってきたひなのに話しかけた。

「何話してたの、ふたりでこそこそと」

「男だけのエッチな話さ」

 キャッチボールをするような恋人同士の会話、そのふたりは紛れもなく瑛太とひなのであり、もう1人の晴香はすでにそこにはいなかった。

「航さんがぽかんとしてる」

「そんなことないよ」

 そう言ってグラスに口をつけ、航が何気にカウンターでうたた寝を始めていた客に視線を流したとき、その隣にはさっきまでいなかったはずの女性がひとり腰 かけていた。


ーねぇ、桜子さんがいなくなったら、どうなるの。

 耳の奥に直接響いてくるような声が聞こえた。

ー航さんはどうなっちゃうのかな。

 隣では瑛太とひなのが少しだけふたりの世界に入っている。

「えっなになに」

「だからね」

 そんな小声の会話が左の耳に届く。

 そして耳の奥、頭の中に聞こえてくるのはふたりとは違う静かな響きだった。

ーだって航さんは桜子さんに対してどこか距離があるように感じるもの。

 航は目をつむって、ホットウィスキーから切り替えたマティーニをそっと口に運ぶ。

ーそこのふたりのような他愛もないじゃれあい、あそこのテーブルのカップルのような恋人たちの空気、そんなのが航さんと桜子さんには感じられない。

 そうかも知れないな、航は桜子との関係を少し思い出してみた。

 気づいたらそばにいた。

 会いたくなったら、時間に関係なく会いに行っている。

 部屋の鍵の場所、冷蔵庫の中身、シャワーの使い方、何一つひっかかることなく自然にそばにある。

 楽しいこと、つらいこと、何も具体的な話を聞かなくても、その日のキスですべてがわかる。

 居て欲しいとき、気づいたらもうそばにいる。

 じゃれあわない、醸し出す空気はない。

 でも、あうんの呼吸。

 自然に話した内容が、そっと差し出した手が、いつも重なり合っていた。

 ラブラブのカップルと比較すると、みんなは桜子と自分の関係がどこか距離のあるように写るのか。

ーそんなふうに桜子さんも思っているのかな。

 航は静かに目を開けた。

ーほんとはもっと、そこのふたりのようにたまにはじゃれあいたいんじゃないのかな。

「今さら」

 航はほとんど唇を動かさずに、その響きに応えた。

ーだって今までそんな話をしたことないでしょ、桜子さんと。

 瑛太とひなのはすでにふたりの世界に入っていた。

 航にはふたりの会話が遠い彼方でされているように、聞き取れない。

ー桜子さんはしたがっているかも知れないじゃん。

 航がカウンターでうたた寝をしている客の隣に腰かけている女性に顔を向けると、その女性はじっと航を見つめていた。

ーわたしがここにいるって、分ってたくせに。

 立ち上がったその女性は半透明な身体で、そして彼女の動きに誰も気をとめる者はいなかった。まるでその女性と航の間だけ時が動き、みんなの時は止まって いるかのようだった。

ー航さんはどうなったゃうのかな。

「晴香は桜子に何かするつもりなのか」

ーわたしは何もしないわ。したとしても何も言わない。きっとすぐ航さんはわたしを疑うんだろうね。でもわたしは何もしない、ほんとよ。だって航さんが桜子 さんに何かしているんだから。そうなんだよ。

「え」

ーもうしているんだよ。今ここに、いつもと違うお店で、3人で会っている事自体、航さんはすべてを壊し始めているんだから。

 

 桜子は洗面台で化粧を落としながら、スッピンに戻っていく自分の顔を見つめていた。

 ぱっちりとした目、まつげのエクステンションは必要ない、と思う。

 唇も厚すぎず薄くもなく、ピンク色で、口角を少しだけあげるとかなりかわいい、と思う。

 洗面台のトップライトが肩までの黒髪を照らし、紫のカラーリングをしていることがわかる。

ー光が透らないと誰も気づかないわよね。

 桜子は首を振り、ヘアサロンでほんの少しだけ短くしてカラーリングを入れた髪に触れた。

ーまったく航はなーんにも気づかないんだから。

 先週、深夜に航がやってきて、わたしを抱いた。

 その後でふたりでシャワーを浴びた後、この洗面台でまた抱かれた。

 トップライトは点けたまま。

ーやることに夢中で、髪の毛なんてみてないんだろうな。

 そうは思っても、ここでの行為を思い出し、服の上から両手でそっと両方の乳房を包み込む。

 鼓動が早くなっているのを感じた。

 リビングに戻った桜子はテレビを点ける。チャンネルは特に選ばず、ボリュームはいつもの半分、目的もなく何となく。

 カーテンを開けると街の明りが見下ろせる。もう深夜だと言うのにまだまだみんな起きているんだろう。

ーどうしちゃったのかな、わたし。

 何かがポカンと空いている。急に心に寂しさを覚え、誰かと無性に唇を重ねたくなった。

 桜子はしばらく街明かりを眺めていたが、ため息をひとつつくとキッチンに踵を返し、冷蔵庫から残り物の総菜をテーブルに出した。次にキッチンのシ ンクの下に並べているアルコール類を確かめた。ジン、モルト、焼酎なんかの数本のボトルが並んでいる。すべて航がここにキープしているボトルだ。

ーここはお店じゃないっての。

 でも今はこのボトルを見るだけでも、何故かほっとした。

 そしてその中から一本のジンを手に取り、野菜室にあった檸檬を絞り、氷を入れた。

ー確かに航が言っていたとおりだわ。冷凍庫でキンキンに冷やしておくべきね。

 ジンのボトルは冷凍庫が狭くなるからとシンクの下に移動させていたが、航の言い分も分る気がした。

 桜子は目の前のグラスに少し首をひねり、

ーこれじゃ、きつすぎ。

 缶コーラを冷蔵庫の奥から取り出し、ジンに加えた。

 缶コーラも航の喉を潤すためにたまに買い置きしているもののひとつ。

ーいつのまにあいつはこんなに侵食してきているんだろう。

 テーブルでお手軽ジンカクテルを喉にとおすと、ふと桜子は思った。

 総菜をつまみに、ジンを口にしながら、目的もなくテレビを見ている。

 今夜は仕事もそこそこに終らせ、ウィンドーショッピングで数店のショップを巡り、なんとなくモスバーガーを夕飯にして、ふらふらと帰宅した。

ー何かが足りない。こんなんじゃないよ。

 桜子は足りない何かを見つけようと、総菜を一口、口に運んだ。


ーそっか。

 3杯目のジンをコーラで割りながら、桜子はひらめいたように足りない何かを思い当たった。

ー週末なのに、今日は誰からも誘い のメールがなかったんだ。

 最近たまに会うひなのからもなければ、晴香からもない。当然瑛太からもないし、そして何より航から何の一言もメールが ない。

ーそりゃあさぁ、ないってこともあるだろうけど。

 でも、今夜に限っては何かすんなりそうとは思えない。

ーいつもの週末と 何がどう違うって、自分にも説明できないけど。

 もしかしたらコーラ割りのジンのせいかも知れないと桜子は思ったが、でも一度何か違和感を覚えて しまうと、今度はそれを払拭する理由を探してしまう。

 そうこうして時間が経つと、そう思った理由よりも払拭する理由を思いつかず、ますます払拭 できないとなると、やはりそれはそう言うことであり、今夜誘いのメールが誰からも来ないのはおかしいと思い込んでしまう。そして、単におかしいと思い込む だけではなく、その思いは桜子を不安の塊に変える。

ーおかしいよね、変よね、絶対。

 グラスと氷に付いている泡を見つめながら、桜子は不 安なことをあえて自分に言い聞かせる。グラスを手に取ると、そのひんやり感がまた桜子を不安に陥れる。

 それでも桜子はいつもの3人にメールを打 つのをためらっていた。

 打とうかどうか迷う以前に、メールを打つと言う行為は今、桜子の選択肢になく、逆にメールはしてはいけない行為に位置づ けられていた。それこそ理由なんてなく、あるとすれば今夜のこの状況、ひとりでつつく総菜とコーラ割りジンが作り出す妙なプライドが自分からメールを打つ 行為を否定しているのだろう。

 すると不安を解消する術はもはやなく、ただひとり部屋の中、総菜を口に運びグラスを傾けて、やがて不安がそっと引 いていくのを、何事もなかったように朝になり不安が今夜の自分の中で笑い話に変わるのを、ひたすらジンとそして時間とともに待つしかなかった。

 夜中の3時になろうとする頃には、桜子は自分の涙がテーブルを濡らしているを見つめていた。

「可笑しいよね」

 今度は声に出して言ってみ た。

 そして頬杖をつき、濡れた頬を包んでみても、何も変わらなかった。

 ジンはコーラと氷で薄まり、グラスの下は水たまりのように水滴 が溜まっている。

「誰も何もしてくれないんじゃなくって」

 桜子は鼻を一回すすりあげた。

「ひとりでいるのを悲壮っぽく演出して いるだけ」

 テーブルの涙を人さし指で拭きとった。

「ばかみたい」

ーばかみたいじゃないよ。

 その言葉に桜子は半信半疑 の思いで、テーブルから顔を上げた。

ーだから前に言わなかったかな。

 テーブルの向かい側には、半透明の晴香が優しく微笑んでいた。


 晴香は夢の中で、桜子を見ていた。

 眼を赤く腫らし、何かを押さえつけながら笑顔を繕っている桜子を見ていた。

 桜子に自分が話しかけている。

 遠い彼方で、耳に水が入ったときのような響きで、その声が聞こえてくる。

ーわたしは桜子さんに何を言っているのだろう。

 眠っている晴香が寝返りを打ち、少しだけ眉間に皴を寄せる。夢の中に集中するために。

 晴香はもうひとりの自分が今、桜子の前に居ることを知っている。

 夢の中で、もうひとりの自分の行動を意識的に見ようとしている。

 もうひとりの晴香、それは今、桜子の前にいる半透明の晴香、その半透明の晴香も眠っているはずの晴香の視線を感じていた。

ー邪魔はしないでね。

 晴香は眠ったまま、奥歯を強く噛みしめた。

ー無理するから。どうしちゃったのかな。初めてじゃないの、もしかして。

 そして、右手で強くシーツを握りしめた。

ー何をするつもりなの。

ーあれ?やっばり。この時間は完全に晴香はわたしのものじゃなかったっけ。

 左手もきつく結ばれ、指が白くなっている。

ーだからって、やっていいことと、そうじゃないことが、あるでしょ。

 半透明の晴香は桜子のテーブルから立ち上がると、そのままの姿勢で数歩だけベランダ側へ後ずさった。

「行かないでよ」

 桜子は自分が何を言っているのか、よくわからないまま、でもひとりになるのが怖かった。

「行かないよ。大丈夫。もう少しだけここにいるから」

 そこにいる晴香は優しく微笑みながら、そう口に出して答えた。

 言った瞬間に自分の半透明度に濃さが増した気がした。

ー聞こえたでしょ。わたしはね、今、桜子さんに必要とされているんだよ。

ーつけこもうとしていない?

ー何をつけこむのさ。

ー航さんとの仲に水を差そうとしていない?

ー事実を話すだけだよ。

ー他人から知らされたくないことってあるんだよ。

ー誰かが教えてあげないと、かわいそうなままってこともあるじゃん。知らなけりゃいいってことでもないでしょ。

ー知らない方がいいこともあるよ。恋人同士のことに周りがあまり口出すべきじゃないと思う。

ーでも、結果がわたしたち両方にとっていいことかもよ。

ー誘導すべきじゃないよっ。

ー誘導じゃないよ。だからぁ、事実を話すだけだってばさ。

 半透明の晴香は大きく右腕を振りおろし、その瞬間、晴香の夢は真っ暗闇と化した。

「お待たせ、桜子さん」

 さっきより輪郭が濃くなった晴香は桜子のテーブルにゆっくりと腰かけた。


 桜子と航はどちらからとも話し始めることはなく、河川敷の方を向いたテーブルに並んで腰かけて、珈琲を口にしていた。

 ふたりでカウンターに座っているのではなく、このカフェでは少し大きめのテーブルが天井から床まで1枚構成になっている窓ガラスにくっつけてある。その テーブルに並んで座っていた。

 うららかな午前の遅い時間、でもまだランチにはちょっとだけ早い。河川敷に沿って延びている遊歩道で、散り終った桜が柔らかい新緑を見せ始めていた。

 桜子はたっぷりのオーガニック珈琲が入ったカップを両手で包み、航はダブルのエスプレッソ珈琲を右手で持ち上げていた。

「ねぇ航」

 桜子は視線を河川敷に向けたまま、抑揚のない声で、航に話しかけるというよりも独り言のように言った。その独り言に航はちょっとだけ桜子を一瞥しただけ で、また珈琲を一口飲んだ。

「きれいな空だな」

 航も桜子同様に、ぽつりと言った。

 店内で食器のぶつかる音がもし重なっていたら、聞き取れなかったかも知れない。そのくらい、ぼそっとぽつりと言った。

ー確かに雲ひとつない、久しぶり青空だ。

 桜子は葉桜を見ていた水平視線から、その上に拡がる空を改めて見て思った。

 待ち合わせにしたこのカフェにくる間、どうして気づかなかったんだろう。

 少し空気の冷たさは感じたけど、桜は花が終って葉桜になっていることもここに座って航を待つ間に気づいたくらい、空なんてまるで眼中になかったな。

 どうしちゃったのかな。

 桜子は珈琲を一口すすった。

 左に腰かけている航もまた一口すすった。

ーあっシンクロだ。

 だから何だってわけじゃないけど、桜子は何かうれしいと感じた。

「ねぇ航」

 今度は少しだけ抑揚がついた気がした。

 続きの言葉が決まったから。だから同じ言葉でも自分の声がさっきと違う気がした。

ー航もそれを感じたのかな。何?って眼をしてる。

「このあとわたしんちで」

 あれ?どうしたの、わたし。

 好きって言おうとしているのに。さらっとそれだけ言おうとしているのに。

「青空みながらセックスしない?」

 でも、こんなにどきどきするの、ひさしぶり。

 でもでも、どきどきって感じの声色じゃない。

「カーテン開けてさ、わたしが上になったり、航がそうしたり」

 あれ?航が笑ってる。

「青空が視界にある、そんなセックス、どう?」

 航は珈琲カップを左手に持ち替えて、右手で桜子の耳の後ろを触る。

 そして桜子にキスをした。

「航ぅ、ここカフェだよ」

「そだね。でもおたがい様」

 航はそう言って、また青空に顔を上げた。


 さっきまでわたしの中に入っていた航。わたしの耳たぶを噛むように舐めていた航。

 そんな航が今、横で寝息を立てている。

 航の寝息って、かわいい。

 わたしは航の腕枕に埋もれながら、15センチほど開いている窓から青空を見上げた。

 半透明の晴香は、航は無意識のうちにわたしを避け始めている、と言っていた。

 そうかも知れない。でもそれは分らない。

 だって、もともと、べたべたいちゃつくこともなかったし。

 航の肩にそっと唇をつけてみる。

 やわらかい。

 抜けるような青空って今日みたいな感じなんだ。

 わたしは航の太ももに自分の足を絡めてみた。

 まだわたしは濡れている。

 もう1回、抱いてくれるかな。

 抱いてくれたら、この何とも言えない不安も一緒に溶けちゃうかな。

 航はこっちを向くかな。背中を向けちゃうかな。

 少しどきどきしちゃう。

ー青空が。。。

ーどした。

ーくるくる。。。まわってる。。。

 2回目の青空を見た後、一緒にシャワーを浴びてたら、航がまた触ってきた。

ーまだするの。うれしいんだけど。

 今日は青空を見ながらがいい。

 航はバスルームの小窓を少し開け、バスルームに光を入れる。

 あぁ、青空だ。

 そして立ったまま、またひとつになる。

 3回目。

 半渇きのふたりのまま、ベッドに戻り、一緒に青空を見る。

 もうくたくた。

ー久しぶりだね、こんなに。

 航は笑っている。とっても優しく笑っている。

 何も身につけないまま珈琲を入れていると、航がシーツにくるまったままぼそりと聞いてきた。

「好きだとか、何とか、言って欲しいものなのかな」

「何とかって何」

ー航がばつの悪そうな顔してる。きっとわたしもそうだろう。

「連絡とりたいときに連絡とれれば、それでいいんだけど」

 わたしは嘘をついた。


「ねぇ、どう思う?」

「そうねぇ」

 桜子は曖昧に返事をした。自分でもあまりに曖昧だな、とは感じた。

 朝からひなのは桜子のマンションに来ている。

 未明にひなのから桜子に電話があり、朝には桜子のリビングでひなのと一緒に珈琲を飲んでいる。

 ひなのは持ち上げた珈琲カップを一旦テーブル に戻すと、

「もっとさぁ、ちゃんと聞いてよね」

「だってさぁあ、結局はひなのちゃん次第なんでしょう」

「あ、めずらしく、ちゃん付けで呼んだっ」

「これから来ていいかって」

「すごい時間だな」

 さっきベッドの中で航が口にしたこの言葉は、 正直、桜子もそう思った。

 きっと今日じゃなければそんな風には思わないはずなのに、とも桜子は思いながら、

「何かあったんだろうね」

「じゃあ、しょうがないかな」

「帰るの。。。」

 少し媚びた声色になった桜子は、自分がはずかしかった。

「そんなときも、あるさ」

「ふーん」

 これから帰り支度をすることに抵抗もなく、航の軽い感じの返答がいまいち気にくわない桜子だった。

ーいてくれてもいいのに。

 航はそれを察したのか、桜子をたしなめるように

「きっと大事な話なんだよ、うん」

 と言い、唇を重ねてきた。

ーなんか、ずるい。

ー用件はそれだけなのかなぁ。航は眠い目をこすりながら帰ってくれたのに。なんかもうどうでもいいなぁ、航とわたしのこと以外すべて。

「桜子さんが誰かをちゃん付けで呼ぶときってさ」

 ひなのは少し膨れっ面になっている。

 それはそれでかわいい表情だと桜子は思った。

ーそおかぁ、うん、若いっていいなぁ。

「そんなときの桜子さんは、面倒くさいなぁって思い始めているときだよね」

「そうじゃないけどぉ」

 桜子は少しぬるくなった珈琲を口にする。

 珈琲はぬるくなっちゃだめだな、と言っていた航の言葉と苦笑いしたそのときの航の表情を思い出した。

「けど、なぁに」

 自分に妙な矛先が向きそうになるのも、かったるく感じて、軽く髪の毛をかき上げてみる。

ーもぉいいや。

「散歩、行こうぉっ」

「あっ 話題変えようとしてるっ」

ーもともと話題はひなのちゃんのことなんだけどなぁ。

「珈琲飲んで目が覚めたら、朝のすがすがしい空気を吸う。それが健全な生活の一歩だよ」

「健全ねぇ」

「わかんないときはわかんないし、決められないときは決められないときなんだから」

 ひなのはきょとんとして、桜子をのぞきこんだ。

「何の答えにもなってない」

ーそう、でも、無理に何かを決めることもないと思うんだ。

 桜子はひなのの珈琲カップも手に取り、流しに下げながら、元気よく少し大きな声で自分にも言い聞かせるように言ってみた。

「いこっ、きっと気持ちいいからさ」

 ベランダの向こうに見える空は今日も青空だった。


 近くの公園のベンチで、桜子とひなのは珈琲片手にただただ目の前をジョギングしていく人々を見ていた。誰か知り合いを探すとか、何か目新しいものを見つけ るためとか、そんな何かの目的をもって見ているのではなく、なんとなく青空のもと、朝のみずみずしい空気につつまれていた。目の前を通りすぎる人々の姿は 季節も変わり、露出度の高いジョギング姿が目立ってきたようだ。

 ひなのはそんなジョギングの邪魔にならないように、でも爛漫に足を投げ出している。まるで相談事とかないようにさえ見える。

 桜子は未明までの航との行為を思い出しながら、晴れ渡った青空に目を細めながら、珈琲を口に運んだ。

「ねぇ、どうしよう」

「なんだったっけ」

 ひなのの小さくささやくような不安げな問いかけに、桜子は正直、一瞬何のことかわからないでいた。

ーあれ?どうしてここにひなのちゃんと一緒にいるんだろう。

 きょとんとした眼で桜子はひなのを見つめた。

「上の空だね」

 ひなのはぽつりと言った。相手にしてもらえない寂しさが表情からも見て取れた。

「確かに桜子さんにとっては他愛もないことかもしれないよ。突然電話して押しかけて、そんなことを相談しにきて申し訳ないと思ってるよ。でもね」

 ひなのは視線を足元に落とした。その視線の先を追った桜子には小さな羽根を運ぶ働き蟻が目に入った。

ーこんな朝早くからもう働いてるんだ。

「でもね、聞いて欲しいの」

 黒くて大きな働き蟻はひなののつま先のあたりまで羽根を運んできた。

「結局、わたしを束縛したいだけなんじゃないのかなぁ、瑛太は」

「束縛ねぇ」

ーわたしなんてもっと航に束縛されたいなぁって最近思うんだけどなぁ。もっと素直に束縛してって言えるといいのかなぁ。俺との時間を最優先にしろって見つ められたら、それだけでもうとろけちゃうのになぁ。

 そう言ってくれない航、本当は言われちゃうと自分の気持ちがどう変化するか不安な桜子、でも今朝の桜子は航に束縛されたいなぁっと、ひなのの声を聞きな がら素直にそう思っていた。

「だって一緒に住まなくったって、電話とかメールとかで十分わたしの時間に入ってきているのよ」

「連絡来ないとどうかな」

「連絡途絶えたことないから、わかんないや」

「ふっと途絶えるとどう感じると思う」

「想像もできない」

「途絶えるだけじゃなくて、うーん、そうだね、連絡が来なくなるだけじゃなくってが近いかな、来なくなるだけじゃなくって、こっちからの連絡がつかなく なったらどうかな」

「わたしから連絡したこと今までないもんなぁ。必ず瑛太からの連絡のときにこっちの用件も済ませちゃってるからなぁ」

「深夜に人影が現れて、怖かった時期があったじゃない」

「確かにあのときは瑛太に相談したわよ。でもあれは特別。あり得ないことが起こってたんだもん」

 いつの間にか、働き蟻は視界から消えていた。思っていた以上に運ぶのは早いようだ。

「それにもう現れないよね」

 桜子とひなのはふたりの間の空気が微妙に揺れた気がした。

「そんなこともあったから、余計に瑛太の気持ちを押したんじゃないのかな」

ー学生の頃からの航とわたしの付き合い。空気みたいな自然な付き合い、気づいたらそばに来ていた、抱き合って抱かれあっていろんな体位もすんなりやって、 でも何か不安、一言何かが欲しいんだろうな、わたしは。

「いいなぁ、そんな悩み」

「やっぱり真剣に聞いていないっ」

 でもひなのは何かに気づいたように、うれしそうに笑っている。対照的に桜子は少し固い笑顔をひなのに返し「きっとひなのは瑛太に対してもう少しじらすん だろうな」と思いながら、また航とのことを考えていた。

ーねぇわたしをちゃんと束縛してくれないかなぁ。


 浅い眠りから目覚めた晴香は、洗面台の鏡に映った自分を凝視していた。

「このままじゃいけない」

 夢から覚めて、いないはずのもうひとりの自分に話しかけた。

 鏡をどんなに強く見つめても、端の方まで目を凝らしても、もうひとりの自分の影は見つからない。

 そんなことは十分わかっているはずだった。

「この身体を昼と夜とで平等に使う。それはそれでもういいんだと納得はしたんだけどね」

 わかってはいたが、見えない自分にちゃんと話を伝えてからこれからの行動を起こそうと思っていた。

 晴香は安心したように、鏡越しにもうひとりの自分を探すのを止めて、鏡に映っている自分、それも自分の薄茶色い両方の瞳に向って話し始めた。

「本当はね、あなたとゆっくりと話したかったな」

 そう口にしたとき、晴香はなんとなく自分の肩の力が取れていくのを感じた。

「喧嘩しても、言い合っても、所詮わたしたちはひとりなのにね」

 小さい丸っこい椅子に腰かけ、肘を洗面台の縁に乗せ、鏡の中の瞳に少しだけ近づいてみた。

「、、、平等なんかじゃない。不平等だね」

 今更ながらに何を気づいているのだろう、晴香の口から小さなため息が漏れた。

「ごめんね。そうだよね」

 もうひとりも自分であることには変わりはない。そのもうひとりは確かに存在している。でも、このわたしの姿としてイメージを相手に与えることができてい るとは言え、体温を持った肉体としてはあのベッドに横になっている。たぶん夜、もうひとりの自分が転んだとしても、何かに引っかかって怪我をしたとして も、眠っているこの身体が傷つくことはないだろう。

「そんなのは平等じゃないよね」

 晴香は少し呼吸が苦しいような、胸が締めつけられる思いがした。

 鏡のどこを見渡しても、もうひとりの自分はいない。

ーえっ。

 クラシックカメラのシャッターを切ったように、一瞬何かが視界を遮った。

 瞬きをしたら、ほんの今まで見えていた世界とはまったく変わってしまった気がした。

 不安が晴香を大きく飲み込もうとしているのを感じた。

「そうよ」

ーうそ。

「うそじゃないよ」

 晴香が自分の両方の眼で見ている目の前の鏡に映っている自分が、うっすらと微笑んでいる。

「あなたが見ているのは、わたしよ」

 晴香は信じ難い恐怖にかられ、鏡に映っているものを隅から隅まで確認しようとした。

「さっきから何も変わってはいないわよ。ただ」

 少しずつ気づき始めた晴香に、もうひとりの晴香が話を続けた。

「今のあなたはこの薄茶色の瞳しか動かせないの。でもわたしはこの瞳も含めてぜーんぶ動かせるけどね。瞳を動かしてわたしや鏡や周りのものを見て感じるこ とことはできるけど、そこまでね。この指さえ動かすことはできないわ」

 満足気なもうひとりの晴香が鏡に映って、にっこりと微笑んだ。

「ほら、微笑んだのは、あなたじゃないわ。このわたし、もうひとりのあなただもの」


「たぶんもう少ししたら、あなたはこの瞳も動かせなくなるわ」

 鏡に映るこの晴香の瞳の中には、本来の晴香の姿が小さく映っていた。

 鏡なんだから、姿を映す、顔を映す、瞳を映す、そして瞳に映っているものも映す。

 ただ、瞳に映っているものは小さく、普段は誰も気にすることもない。

 それは本来の晴香もそうだった。

「あなたがわたしを意識し始めてから、わたしは気づいたの」

 晴香は自分の顔をいっそう鏡に近づけた。

「そうここにわたしもいたのよ。気づかなかったでしょ。だってそのとき自己主張しても何もわたしの徳にはならないと思ったし」

 鏡の中の瞳は固まったように動かない。

「そしてさっき、あなたはわたしに謝った。平等じゃないと謝ったんだよ」

 鏡の中の顔は満面の笑顔になった。それでも瞳は動かない。

「あなたからしてみたら、もともと存在しないはずのわたしで、いなくなってほしいはずだったのに、あなたは折れたのよ。昼と夜での晴香という存在の棲み分 けで自分を納得させようとしただけじゃなくて、ついにもう諦めて、わたしの存在を肯定したってこと」

ーそんなつもりじゃない。

 怒りや抗戦を感じさせる響きではなく、消え入りそうな、本当に小さい声だった。一筋の涙が鏡に映っている晴香の頬を伝わった。

「こうなっちゃったから、そう言うんだよ」

 頬を伝わる涙なんて関係ないといった口調だった。

「そしてあなたはこのわたしの瞳を通して今までの世界を観るだけの存在になるのよ。わたしが芽生えだした頃のわたしのように。当時のあなたとの違いは、わ たしがあなたを意識しているということ。あなたはわたしを意識したことはなかったからね。これからもわたしはあなたを意識し続ける。なぜだかわかる?」

 晴香は鏡から顔を離すと、両手を腰に当て、大きくにっこりと自分に微笑みかけた。

「簡単でしょ。また立場が入れ替わらないように。昼間の世界での存在をわたしはもうあなたに返す気はないわ。そのうち夜の世界もあなたの自由にできないよ うにしてあげる」

ー夜の世界。

「そうよ。入れ替わったんだから、あなたは夜の世界を、わたしが寝ている間の世界を手に入れたのよ。言うまでもなかったんだけど、すぐ気づくと思うしね」

 晴香はくっくっくっと笑った。

「あら、笑っちゃった。ふふふ。気づいてもすぐにあなたはどうこうできないだろうけどね。自由に動けるようになるのにわたしでさえ結構時間がかかったし。 あなたが夜の世界を自由に使えるようになるまでには、この瞳の中から完全に消してあげるわ」

ーえっ。

「それが優しさなのよ。あなたのように謝ることが優しさじゃないのよ。ときには切ってあげることも優しさだと思うな。わたしたちの場合、それはもう一人の 晴香を抹消すること。だからあなたには」

 鏡に映った晴香はここまで口にして、突然崩れるように倒れてしまった。


ーだからね、わたしたちの身体がもう耐えられなくなってきているのよ。

 ソファに横になっている晴香に、リビングのテーブルに座っている晴香が話しかけた。静かなゆっくりとして口調だった。

 横になっていた晴香はなれない動きで身体を起こし、ソファに深く背をもたれかけた。テーブル側の晴香はテーブルに肘を立て両手の指を絡ませている。

ーどうしてこの部屋にふたりが同時に存在しているの?

 ソファから天井を見ていた春香は少し顔を左右に振ると、テーブル側の晴香に視線を投げ掛けた。

ーわたしたちの身体はまだ洗面台のところに横たわっているわ。どっちのわたしたちの意識で動けばいいのか身体が混乱して、オーバーヒートでも起こしたん じゃないかな。

 淡々と話す晴香の言葉を素直に理解できず、もうひとりの晴香は改めて部屋をゆっくりと見回した。

 何も変わったところはない。普段通り。ちがうのはリビングにもうひとりの自分が座っていることだけ。そのもうひとりが長い間、自分たちの、いや自分の身 体を、昼間の時間を占有していた晴香であることは理解できていた。

 そして、リビングの晴香もソファの晴香も互いに輪郭がおぼろげだった。

ーふたりして同じ時間帯を占有したいと考えるようになったときから、現実的な肉体は悲鳴を上げ始めていたんでしょうね。

ーどうして今まで昼間の時間を支配していたあなたが気づかなかったのよっ。

ー支配はしていないわ。ふつうにすごしていただけよ。

ーその考えがむかつくっ。いいからなんで気づかなかったのっ。

 聞かれた晴香は首を横に振り、

ー無理よ。夜のあなたが存在することで昼間の疲れがとれないんだろうな、としか思っていなかったから。そこでわたしたちの精神的存在場所が入れ替わって、 どっちからの命令が正しいのか身体だけでは判断できなくなったのよね、きっと。

 それを聞いた晴香はほくそ笑んだ。

ーじゃあ、もう大丈夫じゃない。だって、ほんのちょっと前から主体はわたしに切り替わってんだから、わたしの命令のみで身体は動けばいいのよ。

 テーブルからため息が漏れた。

ーわたしでもあなたでも誰からの命令、だれの意識としてでもいいわ、わたしたちの身体が再起動してくれればね。

ー動くに決まってるじゃない。

ーそうかもね。でもいきなりあなたで試す?あなたが主になったとたんに起きたことなのよ。

 テーブルの晴香の口元が少しだけ笑っている。

 確かにそうかも知れない、ともうひとりの晴香は思った。でもやっと手に入れた身体を再起動させるのにまたテーブルの晴香を一旦だけでも昼の存在として身 体に認識させるのは避けたかった。そのまま昨日までの昼と夜の関係に戻りそうだったから。


 ふたりの晴香はおたがいを認めたわけではなく、また譲り合ったわけでもなく、ただそれぞれの思惑で、洗面台の前で横たわっている自分たちの身体を見 下ろしていた。

 さっきまでよりもわずかだが輪郭が薄くなってきている晴香が、身体の前に膝間づいた。

「まだ顔色は悪くなさそうね」

 膝間づいた晴香はそっと横たわる身体の頬に手を伸ばした。

「何するのっ。触らないでよっ、わたしの身体なんだからっ」

 やっと手に入れた自分の身体、その思いが膝間づいた晴香に対して言葉を荒立たせた。

「そうやって触って、自分が入り込もうとしているんでしょ」

 言葉とともに、もうひとりの晴香は膝間づいている晴香を払いのけるように、見下ろしていた身体に覆いかぶさってきた。

「だめっっ」

 膝間づいていた晴香は身体の頭部をかばうように両手で横たわる顔を包み込んだ。

 そのとき、覆いかぶさってきた晴香はきっと気づかなかっただろう。

 でも、顔を包み込もうとした晴香は、一瞬身体の顔が、口元がかすかに微笑んだ、いや、ほくそ笑んだのが目に入った。

 ふたつの意識が同時に身体に入り込み、それぞれが主導権をとって、身体を目覚めさせようとしている。

 ふたつの意識はもう譲ることはしない。

ーこれからはわたしの身体なんだから。

ーもともとわたしのものなのよ。

 身体は床の上で、痙攣を起こし、こわばったり、ゆるんだりを細かく繰り返し始めた。

ーきっとこのままでは身体が壊れてしまう。

 ふたりの晴香ともその恐怖を感じながらも、もはや譲ろうとはしなかった。

ーわたしを受け入れるのよ。これからはわたしと楽しむんだから。

ーお願い、壊れないで。もう一度わたしの身体に戻りましょう。

 白目を剥いたまま、身体は小刻みに痙攣を続けていた。

 その夜、航は信号の赤い色で頬を染める晴香を見ていた。

 街灯もないこの交差点、唯一の明かりが信号だった。

 信号待ちをする車もなく、この時間、人通りもない交差点、航は赤い光を晴香の左目にも見つけた。

「帰るね」

 晴香は航の頬に右手を添えると、ふわりと交差点をわたりはじめた。

 思っていたよりもひんやりとした晴香の掌を頬に感じた航は、晴香の言葉でスイッチが入ったかのように、踵を返してさっきまで晴香といたバーに戻った。

「おや」

 どうして戻ってくるんだろう、と宙に浮くような声がカウンターの中から聞こえてきた。

 自分でもなんで戻ってきたのか説明もつかない航は、さっきまでと同じウイスキーを頼んだ。

 ふわりと歩き始めた藤崎晴香のことを知らないわけではなかった。

「ただ」

 知っている限りの、

「いや」

 ほとんど知らない、名前くらい、名字だけはかろうじて記憶にあった。

 真ん丸の氷が沈んだ、浮かぶというより、たしかに沈んだウイスキーグラスが航の視線に入ってきた。

「ひとりごと、ひとりごと」

 マスターは笑いながら軽くおかきの山もさし出してくれた。

 それからほんの数分後だろう、

「戻ってきちゃった」

 少し息を切らしている晴香がバーに現れ、航を背中から抱きしめた。

 航が驚いて肩越しに晴香の顔を見ると、

「知っているわ。航に桜子さんがいることは。でも、いいじゃない、楽しみましょ」

 そう言って、晴香は航と唇を重ねた。

 腕を組み、タクシーに乗った晴香と航は行き先を告げると、また唇を重ねた。

「ほんとうのきみは誰なの」

「そうね、昼間のわたしでも、夜だけのわたしでもなくなったわ。ふたりは譲ることをしなかた。だから、ずーっと潜んでいたもうひとりのわたしがちゃっかり 出てきて、ここにいるの。そして、少しだけ時間も戻してみたの」

 航は意味を理解しようとはせず、晴香の首筋にキスをした。

ーあん。

 ふたりを乗せたタクシーは、瑛太とひなのが戯れているはずのいつものお店に向かっている。そこには桜子も来ているかも知れない。


                              完


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